日本の城跡

姫路城(別称:白鷺城)

三の丸より天守群
訪問日 S49年 2月、H12年 5月、H15年 2月他
ポイント 日本の国宝で、最初の世界文化遺産。その縄張は城の北を基点として防御線が3重の螺旋状となった複雑巧妙なもので、他には江戸城のみである。そして五層六階の大天守と3つの小天守が渡櫓で繋がり、幾重にも重なる屋根、千鳥破風や唐破風が白漆喰造りの外装と相まった連立式天守閣が厳然と迫っている。更に明治初期の混乱と火災で三の丸御殿や備前丸御殿は失ったが、天守をはじめ多くの櫓・城門が一連となって現存している我国随一の城郭である。しかし姫路城の天守は戦闘用であり、隠し狭間、鉄砲射撃の石打棚等を備え、容易に登れない急傾斜の階段や戦闘指揮用に望楼式の最上階になっていた。しかし厳しい風雪の中で昭和の大修理で直されたが、礎石が天守自身の重みに耐えかねて地盤沈下を起こし「ピサの斜塔」のように東方に傾いていたという。
印象 すばらしいの一言。天高く聳える天守、長塀、水堀、高石垣、規模の大きい螺旋状の縄張等遺構が多く、一日では見切れない。天守の中も良く分かり、各層にある武者走りの鉄砲・刀などの用具掛りが興味深い。更に一直線でいけない天守への道、狭い両側の塀の狭間が口を開け、通路自体が完全な要塞に組み込まれている。日本一の城郭だ。姫路市の対応もすばらしく、遺構の保全や発掘調査も更に進めており将来にまた、違った城が見られよう。又、近くの「西の比叡山」と言われる城主本多家の墓所、書写山円教寺も良い。重厚な大講堂の前で、しばし雨の中にたたずんだ。
地図
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略史  姫路は山陽道と山陰道とを結ぶ基点で、出雲街道・因幡街道・但馬街道が分岐しており、古来より交通の要衝として知られ、城郭設営地として考えられてきた。姫山に最初に城郭を建てたのは赤松貞範であるが、庄山城に移住後は被官の小寺氏が代々居城とした。南北朝期に一時山名氏の領国となったが、赤松氏が取り返して再度小寺氏が入城した。戦国時代に小寺氏は御着城に移った為、家老の黒田重隆が姫路城に入り、孫の孝高、後の如水は豊臣秀吉の播磨征伐の時に片腕となって活躍した。播磨を領有した秀吉は姫路城を居城とし、初めて天守を構築した。関ヶ原後、軍功により徳川家康の娘婿、池田輝政は播磨の太守になり、来たるべき大阪城攻略の先鋒を期待され、姫山の地形の造成から始まる姫路城の大拡充と城下町の整備を実施した。しかし次の池田利隆が京都で急死し、後継の光政が幼少であった為鳥取に移され、後には徳川家臣団の名門本多忠政が入城し、西国探題職に補された。政勝の時転封となったが以後、奥平松平・越前松平・本多・榊原・越前松平・酒井氏と譜代の重臣達がめまぐるしく交代した。酒井氏は明治まで在藩したが財政に苦しめられ、倹約の徹底、冥加銀講の貯蓄制度の創始、姫路木綿の専売等実施した。幕末、藩主忠績は老中として将軍家茂を補佐したが、藩内は尊王・佐幕派で分裂、尊王派が敗れ処罰された。しかし鳥羽伏見で敗れ朝敵となり鎮撫総督の追討を受け恭順開城した。献金で家名は存続したが、旧佐幕派が処罰された。
駅前通りからの遠望
大手付近の堀
 
西の丸多聞櫓・本城石垣
本城三の丸石垣
本城石垣・西の丸方面
  
本城石垣・水堀・好個園方面
 
 大手門(但し、昭和13年築造)
    
    大手石垣
  
三の丸より西の丸多聞櫓・石垣群
西の丸「カ」の櫓
菱の門
三国堀から天守群
三国堀から上山里曲輪櫓群
「い」の門・西の丸化粧櫓
「い」の門
 
西の丸「ワ」の櫓
西の丸渡櫓
長局出入口
「に」の門
「は」の門
   「は」の門への長塀・大天守
   
「に」の門
 
「ほ」の門
 
水の一門と内側の油塀と右下の「ほ」の門
 
   「は」の門周辺より天守群
  同から小天守
    
腰曲輪渡櫓
 
乾小天守
水の三門
   水の二門
   
天守内
     
 
同・武者走り
    天守渡櫓・塀
  
  水の五門
  
天守内
 
天守より三の丸
天守より菱の門・西の丸
 
天守より西の丸櫓群
 
天守より南東を
 
  水の四門
「へ」の門
  
「と」の門
「り」の門
  
井戸
  
姫路市美術館・姫路北高
   西小天守
   
   大天守
   
 
「ち」の門
井郭櫓
 
井戸櫓
    「る」の門(穴門)
     
折曲り櫓・備前門
「ぬ」の門
  
「ろ」の門
  
中堀北五軒付近
内京口門付近
同門石垣
同門石垣・櫓台・水堀
 
 
外堀より
外郭・中の門石垣
同土塁
書写山円教寺
同・大講堂
同・常行堂
同・食堂
同・本多家廟
  三の丸より天守群
   
   三国堀より天守群
  
  天守群
  大天守
   
   「は」の門周辺より天守群
「は」の門を振り返る
                                           上記6枚はS49年2月撮影分