日本の城跡

兵庫城(別称:池田城)


城碑
訪問日 H30年 3月
ポイント 当地は北側に山陽道が通る等交通の要衝で、海陸の物資の集散地であり、湊川の支流と分水路が天然の堀の役目を果たしていた。そして前面は海を持つ防御の拠点となった「海城」として整備された。本丸と思われる「御屋敷」は堀に囲まれ、野面積みの石垣と土塁で固めていた。城の北側に城下町が形成され、御同筋には多くの社寺が配置し、寺町となって守りを固めた。また城の周囲に外郭を形成し、土塁と堀を巡らせ、湊川惣門・柳原惣門・長沢口など門を設けていた。兵庫津は南北2.7Km、南北700mの城塞都市であった。
印象 あまりの変わりようで城跡を発見するのに苦労した。新川運河の下敷きになり、旧中央卸売市場の建設、町の再開発等で見事に城跡は消滅したようだ。何かないかと思い、プロムナードを歩いていたら、地下鉄中央市場前駅の入口付近に、発掘調査した時の写真や模擬石垣が展示されていた。少し理解できたかな?それにしても花隈城や兵庫城跡を見ると、神戸市の文化財への対応がどうも疑問。最近は少し違うようだが。
地図
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略史  池田恒興は花隈城を落とした功により、織田信長より兵庫の地を与えられた。1581年、恒興は花隈城の資材の一部を利用してこの地に天守閣を備えた城を築いた。しかし2年後、恒興は大垣に転封、豊臣秀吉の直轄地となり、片桐勝元が代官として入城し、呼称も片桐陣屋と称された。この兵庫津は朝鮮使節が12回来日した内の11回寄港した、瀬戸内の重要寄港地であった。そして大阪城落城後、この地一帯は尼崎藩領に組み込まれ、城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。1769年、上知令により幕府の天領となり、勤番所が設けられて、大阪谷町代官支配となった。明治に入り、勤番所が兵庫鎮台、兵庫裁判所、そして兵庫県庁となり、初代知事に伊藤博文が着任している。

城跡(新川運河)


発掘調査

古地図