日本の城跡
三木城
略史 別所氏は播州守護赤松氏の一族で、南北朝期には東播磨の守護代職を世襲した一族である。室町中期、守護の赤松満祐が将軍足利義教を殺した為(嘉吉の乱)、幕府の追討を受けると、別所則康は満祐に与して子の祐則と共に城ノ山城で自刃した。その後半世紀は山名宗全が播磨を支配したが、応仁の乱が起こると細川勝元の支援を受けた赤松政則が旧領回復の兵を起した。この時別所祐則の子の則冶は従軍して軍功を挙げ、政則の播磨回復により、守護代となり釜山城を修築して入城した(以後三木城)。その後孫の就冶の時、城が戦場の地となり細川高国らに攻め取られたが奪還した。更に尼子晴久軍の侵攻時に国人衆の殆んどが尼子氏に帰順、赤松氏も国外に脱出したが、拠点となって戦い防いだ。以後、別所氏はしだいに自立し、細川晴元の与党として東播支配を強めていった。しかし晴元と敵対していた三好長慶の侵攻時には属城が次々に落城、赤松氏重臣の明石氏が和議するに至って別所氏も支えきれず和睦した。以後、別所氏は三好氏の麾下として大和まで出陣している。次の安治は三好三人衆を見限り織田信長と結び、西播磨に攻め込んだ。この間安冶がが39歳で病没し長冶が後継となり、北播磨の雄、在田氏を滅ぼし別所氏は戦国大名化していった。そして織田信長に毛利氏攻めの先鋒を命じられた別所長冶は、突然三木城に立て篭もり織田方の部将羽柴秀吉に叛旗を翻した。毛利輝元の外交戦略であったが、織田軍は三木の城下を焼払い、以後別所氏に与する周囲の豪族の城を落し、三木城を包囲兵糧攻めとした。こうして半年後、秀吉は本格的に攻勢に出て開城を勧告、城兵の助命を条件に長冶は応じ一族共々自害して果てた。合戦後、秀吉は姫路城を居城として、三木城に城代を置いた。その後中川秀政が入城するが朝鮮の役で没すると、弟の秀成が後継となった。秀成が移封後は豊臣氏の直轄地を経て、関ヶ原後播磨国の太守となった池田輝政が姫路城主となり、三木城は支城となり宿老の伊木忠次の知行地となり入城した。しかし次の忠繁の時、江戸幕府の一国一城令で廃城となり伊木氏も国替えによって退出した。 |