日本の城跡

滝山城(別称:布引城・多芸山城・多喜山城)

切り通し
訪問日 H24年 1月
ポイント 西方の再度山城、東方の摩耶山城を両翼に置き、海辺に近く、大阪湾を往来する舟を監視出来る戦略上重要拠点。縄張りは東曲輪群・中央曲輪群・西曲輪群の三つから構成され、これらの曲輪群は大規模堀切で区画されている。中央曲輪群の最高所に一の曲輪を置き、西隅に櫓台を備えている。東曲輪群から中央曲輪群にかけて数か所に竪堀が設けられ、所々に石垣が見られる。一方、西曲輪は堀切が一ヶ所だけで他の遺構は分らない。京都を見据えた城の為東曲輪群側が地形も厳しく、防御もしっかりしているのに対し、西曲輪群側の防御が比較的甘い。30余の曲輪跡と土塁・堀切・竪堀等が残る。
印象 新幹線新神戸駅の裏の山。布引の滝がハイキングコースになっている。結構きつい坂道を登る。途中、櫓台・堀切・切り通しがある。ロープウエイの下をくぐる、本格的山城だ。曲輪にでるも狭い。一の曲輪が一番広いが、それもたいしたものでない。物見台がある。全山、人工的な構造物は少ない。一の曲輪入口付近には腰曲輪・土塁・堀切で固めている。西の曲輪まで足を伸ばしたが目立ったものはなかった。途中、二重堀切の跡があるが、現在は殆んど埋もれてしまっていた。しかし広大な城域を持っており、天然の要害である。城から神戸のビル街、大阪湾が一望できる。
地図
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略史  滝山城は鎌倉末期に赤松則村によって築かれた。護良親王の令旨を受けて鎌倉幕府討伐の兵を挙げた則村が、この城を拠点に摩耶山を前線にして苦戦を重ねながらも六波羅軍と戦い、足利尊氏軍と協力して入京を果たした。建武の新政崩壊後、足利尊氏に与した赤松円心の範資は摂津守護となり、滝山城・多々部城で南朝方と対峙した。戦国時代、細川氏の守護代であった阿波三好長慶が摂津へと侵攻すると、松永久秀に命じて荒廃していた滝山城を修築させた。長慶の死後、松永久秀と三好三人衆が跡目の三好義継の後見になったが、久秀の勢力が強まり三人衆との確執が決定的になった。三人衆は久秀の留守を狙い、滝山城を攻撃、城方は善戦したが水の手を取られ退城した。その後三人衆の一人篠原長房が城主となるが、織田信長に攻められ放棄し阿波へ逃れ、滝山城は伊丹有岡城主荒木村重の持城となり、家臣池田泰長が守った。しかし荒木村重が織田信長に謀反を起こした為信長によって花隈城ともに攻められ落城し、城は廃城となった。
遠望 物見台 大手登城道・堀切
削平地東曲輪群 堀切 急崖 切り通し 東曲輪群
東曲輪石垣跡 竪堀 東曲輪切岸 東曲輪 同石垣跡
東曲輪・中央曲輪間の堀切道 東曲輪 東曲輪・中央曲輪間の堀切 中央曲輪虎口
中央曲輪群 同・石垣跡 中央曲輪群 同・堀切 同・土塁
中央曲輪群 同振り返る 中央曲輪群虎口 中央曲輪群 中央曲輪一の曲輪虎口
中央曲輪一の曲輪・土塁と櫓台 同一の曲輪 同土塁 同最高地にある城碑・櫓台 西曲輪へ
途中の二重堀切(かなり埋まっている) 西曲輪群 同・出曲輪方面 大手登城道より
布引雌滝