日本の城跡

龍野城(別称:朝霧城)

模擬埋門・多聞渡櫓
訪問日 H22年 2月
ポイント 龍野城は二つの城からなる。揖保川に洗われた鶏籠山上の戦国山城と、麓の近世龍野藩庁が置かれた城である。鶏籠山は播磨守護赤松氏の拠点であった。山城背後は嘉吉の乱の舞台となった城山城が続き、東方には守護所の書写坂本城と姫山城(後の姫路城)が、南方には光明山城・長福寺城が控える。西方には赤松氏の本貫地白旗山、赤松政則の居城、感状山城があった。鶏籠山は赤松領国支城群のクロス地点に位置している。播磨の小京都と言われる城下は揖保川に近い上・下川原、本町などの町家の町筋と、上・中・下の霞城と呼ぶ山の手の武家屋敷に分けられている。近世の城郭は小さく、天守はなく御殿と一層の櫓だけという、5万石の大名の城らしくなく、陣屋といった規模。
印象 城下町は昔より整備されていたが、城跡は荒れるに任せていたらしい。昭和50年以降、本格的に復興建築が始まり再現されてきた。しかし最近では石垣を壊して不釣り合いで壮大な埋門と、一層の隅櫓を二層の隅櫓にするなど、復元から新築に変わっているらしい。史跡保存か、観光か、難しいところだ。町挙げての誘致活動を見ると自分としては許せる範囲かな、楽しめたので。山の古城は時間がなく、駆け足。天守は無いが復興された隅櫓、埋門、藩主屋敷跡、武家屋敷群等雰囲気を感じた。龍野は”あかとんぼ”の三木露風、W鳴呼玉杯に花受けて”の矢野勘治、”哲学入門”の著者三木清らを輩出、文学の町でもあり、また薄口醤油、そうめんの揖保の糸等名産も多く、商業都市としても栄えた。色町には芸者が数百人もいたとのこと。
地図
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略史  室町後期、応仁の乱に乗じて播磨を従えた赤松政則の庶子、村秀がこの地に城を構えた。村秀は政則の片腕となった赤松政秀を後見人とし、成人後、管領細川政元の娘を娶った。政則の死後、執事浦上村宗は下剋上の世相から横暴をほしいままにし、政則の養子政村を殺害、龍野城主村秀も討死した。村秀の子性秀、続いて政秀が城主となり、太子町斑鳩寺の三重塔の建立等全盛を誇った。しかし広秀の時、羽柴秀吉の播州征討があり、広秀はその配下に入った。その後三木城が開城して、播州の赤松系の諸将が一掃されると秀吉は蜂須賀正勝に龍野城を与えた。四国征討で長曾我部元親が降参すると、蜂須賀氏は阿波に移封し代わって福島正則が入城した。翌年木下勝俊に変わったが、この時近世龍野城の基礎が確立した。その後小出秀政を経て秀吉の直轄領となった。関ケ原後、播磨一円は池田輝政の所領となり、龍野城は家老の荒尾氏や池田氏の支配となった。輝政の死後、孫の光政は鳥取へ転封となり、代わって大多喜の本多政朝が入封立藩した。しかし政朝が宗家姫路藩主を相続したため、小笠原長次が入封。長次が中津へ転封すると岡部、京極氏が入転封、脇坂安政が入封し定着した。脇坂氏は赤穂城請取正使を勤めたり、外様ながら」寺社奉行、老中等の」要職を歴任した。幕末、第一次長州征伐には出兵したが二次では脱落、戊辰時は新政府軍に属し越後へ出兵した。
遠望・鶏籠山(古城)・揖保川 復元書院造り殿舎 本丸櫓 埋め門脇石垣
本丸土塀・石垣 模擬隅櫓
搦手門
龍野神社・脇坂安治を祀る
聚遠亭・藩主上屋敷
同・光明天皇より拝領した茶室
同から城下町を見る
武家屋敷跡に建つ裁判所
家老屋敷門
大手門跡
武家屋敷街、右側に藩主下屋敷跡
荒辻平左衛門宅
武家屋敷街
色町通り
古城の石垣