日本の城跡

下赤坂城(別称:楠木館)


土壇・城碑
 訪問日  H26年 4月
 ポイント  城は東・北の二方は東条川が流れて自然の堀となり、はるか東南には上赤坂城・茶臼山砦などの山砦が重なって金剛山頂に続き、西は佐備谷の向うに龍泉寺城・金胎寺城を望み、南は高塚山に続くが、当時、ここに堀切を設け、高塚砦と併せて南面の防御とした。飲料水はこの高塚山から引いたという。頂上部からの眺望は良く、河内平野から金剛山千早城に迫る場合の第一関門がこの下赤坂城となる。
 印象 赤坂中学校周辺。今ははっきりした遺構は殆どないが、中学校へ登っていく途中の段差や裏の谷地を見ると、ここが正成の抵抗線として激しい戦闘があった城跡であったろうと感じてきた。しかし今は、城碑から見る千枚田がすばらしく、千枚田を目当てに来る人が多いようだ。
 地図  
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略史  後醍醐天皇の倒幕計画は側近の吉田定房の密告で発覚、天皇は山城国笠置山に逃れ挙兵した。天皇の子護良親王や河内国の楠木正成もこれに呼応して、下赤坂城で挙兵した。下赤坂城は天皇が笠置山が危ないときに、ここに迎えようと急拵えの城であった。そのため鎌倉幕府軍の大軍が押し寄せた時、熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて翻弄したが衆寡敵せず、折からの暴風雨に乗じて城に火を放って、護良親王らと金剛山中に落ち隠れた。翌年、正成は再起して鎌倉方の湯浅氏を急襲して下赤坂城を奪回した。しかし一年後、再度幕府軍の為に落城、正成は上赤坂城・千早城で抗戦を続け、千早城の籠城戦の間に建武の中興となり鎌倉幕府は滅亡した。南北朝期に入り、湊川で正成が戦死した後は、三男の正儀らがこの城に拠って南朝方の中心として活動した。正儀は南朝方として北朝との和平工作をすすめたが上手くいかず、その後北朝・南朝方を行き来したり、複雑な去就の後没した。

城碑・中学校への登り坂

遠望

中学校側の急崖


中学校正門

土壇・城碑


土壇

谷地・千枚田,、前方の山が龍泉寺城



千枚田