日本の城跡
下赤坂城(別称:楠木館)
略史 後醍醐天皇の倒幕計画は側近の吉田定房の密告で発覚、天皇は山城国笠置山に逃れ挙兵した。天皇の子護良親王や河内国の楠木正成もこれに呼応して、下赤坂城で挙兵した。下赤坂城は天皇が笠置山が危ないときに、ここに迎えようと急拵えの城であった。そのため鎌倉幕府軍の大軍が押し寄せた時、熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて翻弄したが衆寡敵せず、折からの暴風雨に乗じて城に火を放って、護良親王らと金剛山中に落ち隠れた。翌年、正成は再起して鎌倉方の湯浅氏を急襲して下赤坂城を奪回した。しかし一年後、再度幕府軍の為に落城、正成は上赤坂城・千早城で抗戦を続け、千早城の籠城戦の間に建武の中興となり鎌倉幕府は滅亡した。南北朝期に入り、湊川で正成が戦死した後は、三男の正儀らがこの城に拠って南朝方の中心として活動した。正儀は南朝方として北朝との和平工作をすすめたが上手くいかず、その後北朝・南朝方を行き来したり、複雑な去就の後没した。 |