日本の城跡

千早城(別称:楠木詰城・金剛山城)


二の郭城碑
 訪問日  H26年 4月
 ポイント  千早城は大和五条と南河内とを結ぶ最短コースで、交通・軍事の要衝。金剛山から西に走る一支脈の先端の独立峰にあり、楠木氏の詰城。城は千早川の渓谷を利用し、北は北谷、東南は妙見谷、東に風呂谷があって、四方は深い谷に囲まれ、わずかに城の背後のみが一条の山路によって金剛山頂に連絡するという要害の地である。城郭は主郭・二の郭・三の郭・四の郭・出郭に分れ、空堀・堀切で区画されている。又それぞれの谷を隔てて赤滝砦・北山砦・妙見砦を構え、更に四周堡塁が散在するなど、千早城を中心とした城砦群を形成していた。
 印象  いやはや、大変な石段で500段以上あり、石段の段差も高い為、登り下りに膝が躍ってしまった。両側は急崖できびしい登城だ。やっと削平地に到着、そこから四の郭・三の郭、そして千早神社が祀られている二の郭へ。いずれも規模は大きくない。主郭は神の領域とのことで入れなかった。この城は守る城、攻めるには天然の要害が阻んで難しいと実感した。ないしろ山深い地、無理せず、じっくりと包囲して閉じ込めていたら良かったのにと思った。登城には石段を登るのではなく、金剛山への登山道からの方が楽らしい。
 地図  
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略史  千早城は1332年、楠木正成は鎌倉軍の攻撃で(下)赤坂城に火を放ち、更に山中深く退いて再起を図るべく築城したもの。翌年、鎌倉の大軍が押し寄せたが、わずか千人足らずの少数で奇策を用いて攻防戦を展開し、鎌倉軍を大いに悩ました。数度にわたる強襲もままならず、鎌倉軍は兵糧攻めの手段を取り時間を浪費しているうちに、吉野・十津川辺の武士たちが大塔宮(護良親王)の令旨を受けて集まり楠木軍に助勢しだし形勢が変わりだした。その間に関東の足利尊氏・新田義貞が立ち、播磨の赤松則村や四国の土居氏、九州の菊池氏などの諸氏が起こり、終に鎌倉幕府が滅亡することとなり、攻城軍も囲みを解いて敗走、千日を超す籠城戦は終わった。その後千早城は楠木氏の根拠地として栄えたが、正時の時の1392年に畠山基国に攻められ終に落城し廃城となった。

遠望

登城口

いよいよ石段

急崖

鳥居

石段

急崖

おおるり

続く石段




やっと四の郭へ

四の郭

振り返る

大坂方面

四の郭


三の郭との堀切跡

三の郭

二の郭

同(千早神社)

主郭(入れず)

二の郭と主郭切岸

二の郭

同の急崖



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