日本の城跡

新宮城(別称:丹鶴城・沖見城)

本丸天守台石垣
訪問日 H22年 5月
ポイント 新宮は和歌山県の東南端で熊野川の河口の右岸に位置している。本丸天守からはるかに太平洋が見え、海上の軍事的監視だけでなく、江戸ー上方間を航行する廻船の安全確保など、江戸への物資輸送路の確保を果たしていた。縄張りは本丸を中心に、その南西に鐘の丸、その北東に松の丸、更にこれら曲輪の下に二の丸を置いた。城の北には熊野川が天然の堀の役を果たし、南は日和山の丘が塁壁をなし、南の城下には東西135m、深さ3mの溜池を造った。北側には水の手を置き、大規模な船着場を備え船の出入りに便利にし、そこに蔵を設けた。西側に侍屋敷を配置する等、水際の丘と平地とを巧みに利用している。
印象 この城も念願の城だ。かなり遠かったが期待以上であった。長らく民有地で料理屋、ケーブルなどがあり、立ち入りに制約があったが、新宮市が買い取り発掘整備中である。平山城であるが、周囲の木を伐採してくれている為高石垣がはっきり見えた。ここも全山岩山で、それを利用しながら、更にいろいろな積み方をした石垣が現存しており楽しめた。本丸から見る、山々、熊野川、太平洋など景色はすばらしい。また特徴的な水の手曲輪と船着場の石積みが川の中に整然と残されていたのが印象的だった。鐘の丸、松の丸、それぞれの桝形虎口も興味深い。帰りに熊野速玉大社・熊野本宮大社を参拝。
地図
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略史  この丹鶴山には中世以前は熊野三山を支配した熊野別当が別邸を築いていた。また熊野大社関連の寺、東仙寺や宗応寺が山麓にあった。戦国末期には土豪の堀内氏善が丹鶴山に築城し、熊野地方の支配を目論んだ。しかし関ヶ原の合戦で堀内氏は在地領主と共に西軍に味方した為、東軍に味方した和歌山の桑山一晴と田辺城の杉若氏に攻められ新宮城は落城した。徳川家康は関ヶ原で軍功を挙げた浅野幸長を紀伊の太守とし、新宮には父長政の従兄弟で、家老の浅野忠吉を置いた。大阪冬の陣の際、大阪へ出陣した隙に大阪城籠城衆と連動した北山地方の土豪層を中心とする一揆勢が新宮城を攻撃した。しかし留守を守る家臣の戸田勝直らの奮戦で一揆勢は熊野川を渡れず敗退した。新宮城は一国一城令で一旦は廃城を命じられたが、御三家の南の要として再建が許され、忠吉は現存する縄張りと大差ない城造りに着手した。しかし完成間近の元和5年(1619)、浅野氏に代わり家康の十男紀州藩祖徳川頼宣が入国、忠吉は三原に転封となり、代わって紀州藩付家老水野重仲が入城した。重仲はすぐに築城工事を続け、約50年後の三代重上の時に近世城郭が完成した。水野氏は代々世襲して明治に至るが、歴代城主は皆特異な才人揃いであった。中でも9代忠英は”丹鶴叢書”百五十八巻を刊行し、国学振興に努めた。また南紀派中心として井伊直弼と組み、藩主慶福を14代将軍に擁立した。この時の一橋派との対立に開国問題が複雑に絡み、以降の幕政と幕藩体制に大きな禍根を残した。次の忠幹は度量もあり、第二次長州征伐で江戸隊の先鋒として芸州口の戦いで彦根・高田藩の大敗のあとも孤軍奮戦した。慶応四年(1868)藩屏に列して立藩した。
復元冠木門・二の丸 遠望 登城坂・巨石 石垣・案内
石垣 崩れた鐘ノ丸石垣 登城坂・鐘ノ丸石垣 旧登城坂 鐘ノ丸から本丸へ
本丸と出丸石垣 本丸(天守台)石垣 本丸門跡
本丸より新宮市内・太平洋
本丸天守台方面 同天守櫓台跡
 本丸より水の手・熊野川
本丸
内側より本丸門 搦め手門 本丸下腰曲輪
同・本丸天守台石垣 出丸・本丸多聞櫓跡   松の丸より水の手曲輪への道 水の手曲輪
鐘の丸
鐘ノ丸多聞櫓門 松ノ丸 松ノ丸桝形門
鐘ノ丸櫓台石垣 大手道
同大手門方面
二の丸石垣
本丸下を通るJR線
縄張り図
熊野速玉大社
熊野本宮大社