日本の城跡

和歌山城(別称:伏虎城・竹垣城・虎伏城)

復元天守
訪問日 H10年12月
ポイント 日本三大平山城の一つ。幕府の西国支配の拠点で”南海の鎮”と呼ばれた。山上に大天守と小天守、それを結ぶ櫓が一つの大きな基壇石垣の上に建つ連立式天守閣と本丸、そして二の丸・西の丸・砂の丸・南の丸が備え、それら曲輪を石垣と内堀が囲んでいる。更に城代など重臣屋敷が並んだ三の丸が、外堀に相当する堀川・広瀬川・汐入川に厳重に囲まれていた。このように北・東の大阪方面は厳重であるが、西・南は堀も無く手薄であった。これは背後に海を控えていたことと、南側の外堀工事を幕府に疑われ中止した為である。この為城内の高石垣は南側に集中し、また、南側中央にある不明門脇には天守に匹敵する平面規模を持つ高櫓を築き防備を固めた。
印象 御三家、紀州家の城で、風格があり、さすがと思わせる。平山城で天守は国宝であったが、戦災で焼失してしまった。現在は再建であるが従前のものと同じとのこと、甦っている。更に三代にわたる石垣が興味深い。桑山時代は地元産の緑泥片岩を使用した野面積みで、本丸と中腹に多い。次の浅野時代は近くの友ヶ島からの和泉砂岩を使用した切込はぎや布積みで、一ノ橋付近や北堀・西堀・松の丸櫓台付近に見られる。徳川頼宣時代は砂岩であったが、吉宗の頃は花崗岩を使用した切込はぎで、一ノ橋中御門の石垣に見られる。紀ノ川と和歌川に挟まれた市のほぼ中心地にあり、市の象徴として毅然として聳えていた。
地図
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略史  豊臣秀吉は反抗する紀州の太田、雑賀、根来衆の討伐を決意、弟秀長を副将とし、僧兵を擁する根来寺を攻め、更に太田城を得意の水攻めで落すなど紀州を平定した。平定後、秀吉は軍功挙げた秀長に和泉・紀伊を加増すると共に自らの縄張で紀ノ川左岸の若山に新城を築城し秀長に与えた。秀長は郡山城を居城としていた為、重臣桑山重晴を城代とした。関が原後、軍功により浅野幸長が入封立藩したが、弟幸晨の時大阪の陣の軍功で広島へ転封となり、代って徳川家康の十男頼宣が入封し城郭の大拡張を行った。同時に付家老安藤直次を田辺城、水野重央を新宮城に置いた。頼宣は土豪層も支配下に組み入れ藩体制を確立し御三家の地位を築いたが、産業の開発、土木工事の奨励、家臣団の増強等による出費の増加から財政は次第に窮乏した。更に南海の龍と畏怖された頼宣は由井正雪の乱黒幕の疑いで10年間江戸に留め置かれた。その後も将軍家との婚礼や江戸屋敷の火災等で財政は逼迫した。吉宗は財政再建すべく倹約や新田開発、殖産興業に努め、借財の返済や蓄財を進めた。その後も櫨と松の植林等に努める一方、倹約と学問武芸を尊ぶ藩風となった。しかし治宝の時最大の農民一揆が勃発し多くの処罰者を出した。幕末、慶福の14代将軍擁立に成功したが、最後の藩主茂承は御三家でありながら鳥羽伏見で新政府への恭順を決定、幕府の依頼である大阪城守衛も辞退、奥羽討伐軍に出兵、各地を転戦した。
遠望
二の丸大手門・内堀
内堀
二の丸大手門
二の丸石垣・前の道路は堀跡
枡形・右は太鼓櫓台
正面石垣は岡中門・左は松の丸櫓台
一中門周辺
表坂・本丸へ、左は松の丸櫓台
 
岡口門
松の丸門石垣
本丸表門石垣
天守
本丸御殿方面
天守二の門・二の門櫓・多聞櫓
二の門
大天守・小天守
乾櫓
天守曲輪石垣
砂の丸石垣
砂の丸門
砂の丸高石垣(前の道路は堀跡)
追回門
遠望
紀州家別邸臨春閣(横浜三渓園内)