日本の城跡
和歌山城(別称:伏虎城・竹垣城・虎伏城)
略史 豊臣秀吉は反抗する紀州の太田、雑賀、根来衆の討伐を決意、弟秀長を副将とし、僧兵を擁する根来寺を攻め、更に太田城を得意の水攻めで落すなど紀州を平定した。平定後、秀吉は軍功挙げた秀長に和泉・紀伊を加増すると共に自らの縄張で紀ノ川左岸の若山に新城を築城し秀長に与えた。秀長は郡山城を居城としていた為、重臣桑山重晴を城代とした。関が原後、軍功により浅野幸長が入封立藩したが、弟幸晨の時大阪の陣の軍功で広島へ転封となり、代って徳川家康の十男頼宣が入封し城郭の大拡張を行った。同時に付家老安藤直次を田辺城、水野重央を新宮城に置いた。頼宣は土豪層も支配下に組み入れ藩体制を確立し御三家の地位を築いたが、産業の開発、土木工事の奨励、家臣団の増強等による出費の増加から財政は次第に窮乏した。更に南海の龍と畏怖された頼宣は由井正雪の乱黒幕の疑いで10年間江戸に留め置かれた。その後も将軍家との婚礼や江戸屋敷の火災等で財政は逼迫した。吉宗は財政再建すべく倹約や新田開発、殖産興業に努め、借財の返済や蓄財を進めた。その後も櫨と松の植林等に努める一方、倹約と学問武芸を尊ぶ藩風となった。しかし治宝の時最大の農民一揆が勃発し多くの処罰者を出した。幕末、慶福の14代将軍擁立に成功したが、最後の藩主茂承は御三家でありながら鳥羽伏見で新政府への恭順を決定、幕府の依頼である大阪城守衛も辞退、奥羽討伐軍に出兵、各地を転戦した。 |