日本の城跡

姉川古戦場(野村合戦場・三田村合戦場)

古戦場碑
訪問日 H16年 3月
ポイント 織田信長勝利の要因で大きな要素はまず第一に浅井氏の裏切りに対し、金ケ崎の退口で逃げ切ったこと。その決断とスピードであろう。そして急峻で堅固な山城の小谷城から、要路にある横山城を包囲して危機感をつのらせ、浅井勢を野戦にひきずりだしたことである。野戦は兵力の多寡が勝敗を決定する為。この勝利により信長は天下統一に自信を深めていった。
印象 長浜市と浅井町の境界にある野村橋付近一帯が古戦場跡、碑がある。両軍合せて5万5千の軍勢が相対峙したところにしては、川幅も狭く、水かさもなく意外といった感じだ。昔はダムもなく、大量の水が滔々と流れていたのだろう。関が原の古戦場もそうだが、意外と狭いエリアに軍勢がひしめいていたようだ。まだ弓・刀・槍が主力だった為か。横山城を背に枯れたススキがもの悲しい。
地図
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略史  織田信長は上洛要請を無視してきた越前朝倉義景を討つべく若狭ルートで進撃し金ケ崎城を開城せしめ、朝倉氏の本城一乗谷をまじかにとらえた。しかし同盟関係にあった信長の妹お市の方の嫁ぎ先である北近江の浅井長政が、突如叛旗を翻した。浅井氏は朝倉氏とは旧誼の間柄であり、朝倉氏討伐の時は事前に浅井氏に了解をとる約束でもあった。信長は急遽、朽木越を通って京に戻り、更に京を発して要地に諸将を配しながら本拠地岐阜に帰陣した。そして1ヶ月後には兵を整え岐阜を出陣し、浅井氏の本城小谷城に徳川家康の軍勢と共に攻め寄せた。浅井長政も朝倉義景の援軍を得て両軍総勢5万5千の軍勢が姉川を挟んで相対峙した。当初は磯野員昌の活躍で浅井勢が有利に戦いをすすめたが、徳川勢が次第に朝倉勢を押し返し徳川勢の榊原康政の側面攻撃で朝倉勢は総崩れとなった。この戦線の好転が織田勢にも光明をもたらし、稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らが浅井勢に左右から突撃した為、浅井勢は持ちこたえられず散乱潰走、小谷城に逃げ込んだ。信長も深入りを許さず引き返した。。
姉川
周囲