日本の城跡

安土城

遠望・大手門正面
訪問日 H12年 9月他、H31年2月
ポイント 天下人の居城。比較的低い山に、琵琶湖最大の内湖といわれた弁天内湖や伊庭内湖を利用して防御し、総石垣の塁壁、高い石垣の上に高層建築を設け鉄砲による防御が可能な城塞。縄張も階郭式に帯曲輪を設けてその利点を生かした近世城郭の先駆けの城。また天守は金箔瓦を敷き、狩野永徳描く障壁画で内部が飾られていた華麗な規模をもつ日本最初の建築。更に十三ヶ条の掟を城下の町民に発し、楽市・楽座を宣言し、それまで中山道を通っていた商人たちを安土を通る浜街道を利用するように命じたり、町人に普請役・伝馬役を免除するなどして城下町の繁栄をはかった。
印象 S50年頃一度行っている。その頃はあまり整備もされておらず大手道も現在のように広いものでなかった。今回はびっくり、一本道の大手道が伸び、両脇に重臣の屋敷が配置されている。本丸・天守跡等発掘調査がすすみ、大変興味深かった。大規模工事で築城したものであり、石垣の石も各地から持ち込んでいた。一部に石仏も利用した。天守閣跡でおにぎりを食す。すばらしい一日だった。再訪、発掘が進んでいるので、久しぶりに登城。大手道は整備され、またハ見寺が大手道の徳川邸跡に建てられていたが、それ以外は大手口付近の屋敷跡・虎口や周辺の石垣が発掘整備されていた。。有料になっていたのにはびっくりだ。
地図
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略史  戦国末期、尾張・美濃・伊勢・越前・近江などを制圧した織田信長は、これまでの岐阜城から京都に近く、北陸・伊勢に睨みをきかせ、更に大阪につらなる琵琶湖の水路を扼する安土に「天下布武」を旗じるしに新城を築城した。ここは近江守護職佐々木六角氏の観音寺城と山続きで、同氏の被官である目賀田氏の居城があったが立ち退かせたもの。丹羽長秀を総奉行として工事を始めた。3年後竣工した天守閣に信長は移住したが、壮麗を極めた天守は五重とも七重ともいわれ、その美しさは宣教師によりヨーロッパにも紹介されている。本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、安土城は明智光満が一旦占拠したが追われ、代って織田信雄が入城した。しかしこの混乱時に城下・城郭に火が放たれて天下の名城も3年で焼失した。その後豊臣秀吉次いで織田信雄が入城したが、信雄は小牧・長久手の戦いで秀吉に敗れ失脚、秀吉は近江八幡に新城を築城し安土城は廃城に。
八幡城から見る安土城・観音寺城
  
遠望
土塁・虎口
大手道
     石垣利用の石仏
     
大手道
羽柴秀吉邸
織田信忠邸
大手道
織田信澄邸・森蘭丸邸
    
鉄門・石垣
左上が二の丸
本丸三の御門・石垣
鉄門内側・石垣
二の丸・織田信長廟
本丸へ
天守石垣・台所
本丸入口石垣
本丸・奥が三の丸
天守閣図
天守へ
天守閣礎石
百々橋口
会勝寺
百々橋・水路・水堀?
ハ見寺への石段・石垣
 
途中の石垣・郭
途中の石段・石垣
途中の石塔
仁王門
ハ見寺
同礎石
同石垣
    三重塔
セミナリヨ

以下H31年2月再訪分。安土町にある彦根神社。

同、井伊氏が祈願したのち軍功を挙げた為、彦根城と称した

百々橋口

麓の家臣屋敷跡



大手口

家臣屋敷跡


大手道

転用石仏

前田利家宅跡


羽柴秀吉宅跡


徳川家康宅跡

大手道



大手道を振り返る

大手道

同、武井氏宅跡

振り返る

織田信忠宅跡


そう見寺道へ

本丸へ

黒金門跡へ

織田信澄宅・森蘭丸宅跡
黒金門跡
同・枡形



長谷川邸宅


二の丸石垣

更に枡形の曲輪

同を振り返る

二の丸腰曲輪へ

曲輪にある仏足石


二の丸へ

二の丸から曲輪を

二の丸

信長廟

天守台から信長廟

信雄4代供養塔

蛇石

二の丸からの天守台石垣

二の丸から本丸虎口

同を本丸より(右が天守台石垣)

本丸

本丸石垣、天守への取り付け


天守へ

天守虎口

天守台礎石


天守台石垣

天守台より琵琶湖方面

八角平方面(通行止め)

三の丸方面

本丸北虎口(通行止め)

本丸石垣
安土城遠望