日本の城跡

彦根城(別称:金亀城)

天守閣
訪問日 S44年12月、H16年 3月、H17年 2月他
ポイント 北国道の要衝であり、琵琶湖の制水権を掌握する為家康は彦根を重視し、「天下普請」で完成させた。しかし大阪の陣に備えての突貫工事だった為、佐和山・長浜・小谷・大津城からの移築建築、転用石材が用いられ「寄せ集めの城」となった。天秤櫓は長浜城、太鼓門は佐和山城、天守は大津城から移された。天守は当初の立藩時の十八万石の規模で築城された為、その後の大藩のわりに小規模であるが、入母屋造りに切妻破風・唐破風・千鳥破風で飾る荘厳なもの。国宝である。
印象 一番好きな城だ。こじんまりしているが、いまにも飛び立とうとする天守、城の縄張のすばらしさ、石垣・水堀等立派な風格があり井伊家の居城らしい。彦根の町も国体があり、整備され変わった。今回は大手門から入り天守へ。今まで良く見ていなかった所へ行った。人質郭など興味をもった。天守は改装され、一段と綺麗になっていた。いつ行ってもまとまった美しい城だ。また市も財産として大切にしている気持が伝わってくる。参議だった大隈重信が北陸巡幸の明治天皇に哀訴し取り壊しをまぬがれたもの。感謝!
地図
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略史  関ヶ原後徳川家康の信任厚い井伊直政は石田三成の居城佐和山城に入城立藩した。家康の命で次の直継の時彦根に築城、西国・京の押さえとした。直孝は藩政の諸制度の基礎を固める一方、秀忠・家光・家綱の三代の将軍に仕え、その後の藩主も多くは老中、大老となり幕政の中核を担った。直興は日光東照宮修造総奉行を務め、また領民参加の弁天堂、欅御殿を建築した。直中の時、財政が苦しくなり倹約令を施行する一方、浜縮緬、高宮布等を保護育成や専売仕法を拡大し経済利潤追求しだした。また藩校創設し文武育成に当った。幕末、直弼は開国を主張し米国はじめ諸外国と条約を締結、内政では将軍後継問題で一橋派と対立、外交政策を絡めて起った攘夷倒幕運動を徹底的に弾圧、安政の大獄である。しかし直弼は桜田門で暗殺され、直弼死亡因の虚偽届を理由に彦根藩は減封、京都守護職の家格も奪われた。鳥羽伏見の戦いの時から新政府軍に従事し、更に関東東北の戦いに転戦した。
中濠
佐和口多聞櫓
いろは松
内堀・表門
佐和山口の枡形虎口
天秤櫓
太鼓門へ
太鼓門枡形石垣
着見台高石垣
天守閣
同牛蒡積石垣
天守閣
同下の石垣
西の丸三重櫓
天守・西の丸
西の丸櫓
黒門・石垣
黒門から内堀
井伊大老碑
馬屋
佐和山多聞櫓
以上はS44年12月撮影分
遠望
京橋口
同外堀
京橋門
京橋・外堀
大手橋
大手橋・鉢巻石垣
鉢巻石垣・内堀
西郷長屋門
天秤櫓石垣
鐘の丸
廊下橋門
天秤櫓
天秤櫓から太鼓門へ
本丸石垣
本丸太鼓門櫓
同内側
天守閣
佐和山城を見る
西の丸
同三重櫓・石垣
西の丸三重櫓・石垣
西の丸から人質郭への石垣
人質郭へ
同に架かる橋と堀切
人質郭
黒門近くの櫓台石垣
表御殿
内堀
馬屋
槻御殿(楽々園・玄宮園)
家老木俣家屋敷
佐和山口・中濠[昭和30年代)
佐和山口・中濠
護国神社
鈴木屋敷長屋門
宗安寺・赤門(佐和山城城門)
同・黒門
同・木村長門守墓所
江国寺
市民民家・外堀近く
以上はH16年 3月撮影
佐和山口から遠望
佐和山口門続多聞櫓」
    
  埋木舎表門
佐和山口多聞櫓