日本の城跡

湖東三山 ・天台宗 百済寺

仁王門
訪問日 H16年 3月
ポイント 聖徳太子は百済寺創建時、百済にある龍雲寺を模して本堂を建立した。また創建時の本尊、十一面観音菩薩像は太子自身の手彫りとされ、百済寺山中の同じ杉木から龍雲寺・百済寺の本尊が彫られた言われる。杉の上半分が龍雲寺へ、根の付いた下半分の幹に太子が彫った為、別名「植木観音さま」と呼ばれている。百済国は朝鮮では「ハクサイ」と呼ばれ、「くだら」と呼ばれたことはなく百済寺も創建当初から「ひゃくさい寺」と呼ばれていた。
印象 戦国時代、信長と対立する佐々木六角が百済寺に石垣を作って百済寺城を築いた為、激しい攻撃にあい建物は全焼した。江戸時代に本堂・仁王門・山門が復興したが、他の二寺に比べるとさびしい。三山で一番古く、大きな寺で300以上の塔中があったとのこと。旧本堂・五重塔跡にも行った。広い寺域を車でかなり上まで行ったが、帰りに偶然、赤門を見つける。ここから両側に石垣が延々と続く坂道がある。ここを登れば良かった。それにしても宗教の力はすごい、このような寺院が造れるのだから。当山の紅葉も有名。
地図
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略史  飛鳥時代、推古天皇の時代にさかのぼる。朝鮮半島の軍事的に弱い百済は亡国に際し、避難先として日本を調査する為派遣した僧・恵慈が聖徳太子と知り合ったことから、太子が開基となりこの場所に百済人の為の氏寺を建立することになった。平安時代に比叡山延暦寺の影響を受けて天台宗寺院となり、最盛期の鎌倉時代初期にかけて300余の坊と1,200人の僧を抱える大寺院になった。しかし室町時代の失火や兵火で焼け落ち、更に織田信長の焼討ちでほぼ建物はなくなり衰退した。その後信長の家臣であった堀秀政によって仮本堂が建てられた。江戸時代には天海大僧正の高弟、亮算が百済寺に入り、明正天皇の命を受けて復興を許され、現在の本堂・仁王門・山門が竣工された。
本坊・石垣
表門
本坊
本堂・石垣
本堂
   本堂・千年菩提樹
   
五重塔跡
赤門(山門)
石垣・石段