日本の城跡
湖東三山 ・天台宗 百済寺
略史 飛鳥時代、推古天皇の時代にさかのぼる。朝鮮半島の軍事的に弱い百済は亡国に際し、避難先として日本を調査する為派遣した僧・恵慈が聖徳太子と知り合ったことから、太子が開基となりこの場所に百済人の為の氏寺を建立することになった。平安時代に比叡山延暦寺の影響を受けて天台宗寺院となり、最盛期の鎌倉時代初期にかけて300余の坊と1,200人の僧を抱える大寺院になった。しかし室町時代の失火や兵火で焼け落ち、更に織田信長の焼討ちでほぼ建物はなくなり衰退した。その後信長の家臣であった堀秀政によって仮本堂が建てられた。江戸時代には天海大僧正の高弟、亮算が百済寺に入り、明正天皇の命を受けて復興を許され、現在の本堂・仁王門・山門が竣工された。 |