日本の城跡

観音寺城(別称:佐々木城)

遠望
訪問日 H8年10月、H18年 2月
ポイント 急峻な独立峰の山頂から山腹にかけて築かれており、その規模は我国屈指の大きさ。そして殆んどすべての郭が石垣や石塁によって築かれているという中世城郭では極めて珍しい城。近江の穀倉地帯がある広大な湖東平野を睥睨し、更に軍事・政治的に重要な中山道を監視する位置。また西方には琵琶湖の内湖を控えるという理想的な要衝である。南麓の城下町石寺は我国最初の楽市の制度がしかれた。
印象 H8年、西国札所観音正寺に参拝した時一部を見る。寺の周辺にも石垣が残る。近江を押えるには絶好、巨大な山城だ。再訪したい。H18年、タクシーで観音正寺の駐車城へ。(車の場合、林道から途中まで登る方法もある、寺まで350m.。下から歩いて登るとかなりきつい。)前回訪問時は寺の本堂は再建中だったが、今回は周囲も含め整備されていた。駐車場から寺に向かう途中の左側に布施淡路郭がある。石垣に囲まれ、井戸もある。本堂の裏から本郭に向かう道を登って行く途中にも石垣や少し平場になったところが数ヶ所あった。本郭はそれほど広くないが石垣・門に囲まれている。本郭につながる苔むした4m.程の石段も残る。更に平井郭・落合郭・池田郭など重臣達の屋敷跡が残り、土塁・石垣に囲まれている。下りは寺の登り道、赤坂道を降りたが、石段が整備されているがかなりきつい坂で距離もあった。大手道の麓に城主のお屋形がある。高取城のような高石垣はないが、全山石垣が廻らされており見ごたえ充分だ。
地図
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略史  足利尊氏についた佐々木六角氏頼が奥州より攻め上がってきた北畠顕家軍を阻止しようと観音寺の城郭に立て籠もった。応仁の乱では同族の佐々木京極氏と東西に分かれ戦っているが、当初は劣勢だった六角高頼氏は美作城の同族六角政尭氏を破ってからは急速に勢力を拡大していった。そして六角氏は伊庭氏や浅井氏ら被官の反乱をみるが、将軍足利義晴を庇護する等、戦国大名として政治的、軍事的地位をかためていった。しかし織田信長が足利義昭を奉じて上洛を目指した時六角氏が抵抗した為、信長軍の攻撃を受け難攻不落の観音寺城は落城し、佐々木六角氏は鯖江城に落ちた。
城碑 布施淡路郭虎口 同・土塁・井戸跡 同虎口・石垣 同石垣・井戸跡
奥の院 観音正寺(上之御用屋敷跡) 同石垣 本丸虎口 同搦手口
本丸 同井戸跡 平井郭
同虎口 落合郭虎口 落合郭から見た平井郭虎口 同石垣
平井郭から池田郭に続く石垣 池田郭虎口 池田郭
同井戸跡 同石垣 平井郭埋門 虎口
埋もれた石垣 本丸に通じる大手道 赤坂道の石垣・権現見付け
南麓にある日吉神社 同にある天満宮(六角屋敷跡) 同虎口石垣 同御屋敷跡 同埋もれる石垣
道標・石寺付近 観音正寺参道・石寺付近