日本の城跡

長浜城(別称:今浜城)

遠望
訪問日 H9年 7月、H30年 3月
ポイント 長浜の北を流れる姉川は近江第一の大河であり、長浜一帯の沃野に稲作をもたらし、又南には姉川の支流天野川があり、その水利は軍事的にも要害である。更に姉川のほとり国友は鉄砲を製造する一大工房で堺と並ぶ生産地であった。長浜の南の朝妻港は大津と並ぶ湖水輸送の拠点であり、朝妻港を城下に組み入れることにより、流通経済・交通軍事の両面を押える戦略的要衝であった。
印象 琵琶湖に面した水城の構造だったらしい。琵琶湖にはこの他瀬田城・膳所城・大津城・坂本城・大溝城等があった。鉄筋で再建しているが、当時のものとは違う。公園化されており、遺構はあまり残っていない。廃城時、建物・石垣等は彦根へ移されたとのこと。真宗大谷派長浜別院の大通寺がおもしろい。一部旧長浜城門が移されている。彦根藩主井伊家との繋がりが深い。再訪。長浜駅のすぐ前。駅自体も城内で、駅前に内堀通りがある。前回訪問時より、かなり整備されていた。今回は少し丁寧に遺構を探し、石垣や、井戸跡、内・外堀、移築城門等を散策した。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  佐々木道誉が南北朝期に比叡山にあった、後醐醍天皇側への兵糧と湖上封鎖を行い、あわせて北陸の新田義貞軍に対する為築城した。今浜城と呼ばれ、佐々木氏の臣、今浜氏が守備した。浅井氏滅亡後、羽柴秀吉は険峻で雪の多いな小谷城を捨て江北の中心として今浜城を大改修し新生長浜城を築城した。織田信長の死後清洲会議の結果、柴田勝家の甥勝豊が入城したが勝家滅亡後は山内一豊、石田三成が領有、関ヶ原後は内藤信成が入城立藩した。しかし信正の時高槻に転封、廃藩となり、建物、石垣は彦根築城に使われた。

復興天守


天守台跡
  
大通寺台所門・旧長浜城大手門
  大通寺・山門

      同

    同・本堂

同・太鼓楼

  同・大広間玄関
H30年再訪、撮影分
  駅前内堀跡

   同内堀跡
    馬屋跡

    曲輪跡へ

公園化した曲輪跡


模擬天守

同・城碑

内堀跡に復元された本丸橋

天守台方面

国守神社


人柱になった、おかねさんの碑

天守台跡


琵琶湖方面

太閤井戸跡

長浜城石垣出土跡

同付近

やどり木

模擬天守



本丸跡碑
石垣根石

旧長浜駅舎

慶雲館

内外堀跡


外堀跡

白壁の商家や町屋の多い朝日町


国堺碑

曳山山車庫

堀跡

北国街道

街並み


大手町

黒壁ガラス館(旧国立百三十銀行長浜支店)・北国街道
旧開知学校)
知善院山門(旧長浜城城門)

知善院山門

大通寺台所門(旧長浜城大手門)

大手門跡

外堀跡

秀吉公茶庭門