日本の城跡

小谷城

遠望
訪問日 H16年 3月
ポイント 伊吹山地の西側に位置し、深い谷と急峻な勾配に囲まれた山城。山麓の山田川・田川更に姉川が自然の外堀となり、西と南には湖北平野がひらけている。また足下には越前と美濃を結ぶ北国脇往還があり、更に北国道・中山道を見渡せる交通の要衝。北国と東海を結ぶ扇の要の位置であり軍事上の拠点である。
印象 大手道があるが、車で御茶屋曲輪手前まで行く。途中出丸あり。金吾丸・番所・御馬屋曲輪・大広間・本丸・中ノ丸・京極丸・小丸・山王丸が連郭状に連なっており分かり易い。(清水谷道は別コース)詰の城である大嶽城は少し離れており、疲れて行かず眺めるだけ。尾根道の両側は険しい崖になっており、堅固な山城であることが分かる。内通者がいないと落城しない城だ。落城後、石垣・建物は殆んど長浜城へ持ち去ったが、石垣は所々に残ってあり今にも武士が出てくるような雰囲気がある。浅井長政の無念が滲んでいるような城だ。
地図
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略史  浅井氏三代の城。応仁・文明の乱後浅井亮政は湖北を支配する主家の近江守護職佐々木京極家の継嗣問題の内紛に乗じて勢力を拡大し、小谷城を築城した。亮政は佐々木六角氏に追放されていた京極高清を小谷城に迎え、京極家の家宰高坂氏を失脚させ、自ら家宰につき湖北最大の勢力を有した。その後も湖南の佐々木六角定綱と抗争を続けたが、越前朝倉氏との同盟を強化し六角氏の圧力をしのぎ、その間亮政は勢力を確固にし戦国大名に成長した。長政の時、織田信長の妹を娶り姻戚関係になり、信長の上洛に参陣し六角氏を追放、近江国半国を支配した。しかし信長の朝倉氏追討に叛旗を翻した為、姉川合戦次いで小谷城攻めにより滅ぼされた。その間援軍の朝倉勢は小谷城の詰の城、大獄を守備していた浅見氏が織田方に内通したのを知り退却を始めた。信長はこの機を逃さず追撃し、木の芽峠から一乗谷に攻め込み朝倉氏は滅亡した。小谷城落城後羽柴秀吉が入城したが、急峻堅塁の山城である小谷城を捨て近世城郭として長浜に、小谷城の多くの建物を移して新城を築城した。
 
案内
 
大手道
金吾丸
番所
御茶屋曲輪
御馬屋曲輪へ
御馬屋曲輪
同・馬洗い池
 
桜の馬場から池を
柳の馬場
六角氏に内応した今井秀信の首据石
赤尾屋敷へ
 
桜の馬場
黒金門・慰霊碑
同慰霊碑
  
黒金門周辺の石垣
本丸より千畳敷
千畳敷より本丸を
本丸土塁
  
本丸
本丸と中丸間の大堀切
同大堀切から見た本丸・石垣
御局屋敷
 
中丸
同・石垣
刀洗い池
京極丸
京極丸・石垣
 
小丸へ
小丸
山王丸から小丸を
山王丸石垣
 
山王丸
 
同土塁の上から
山王丸より詰の大嶽城を見る
 
横山城方面を