日本の城跡

大津宮

大津宮錦織遺跡
訪問日 H19年 2月
ポイント 中大兄皇子は白村江の戦いの敗北で国外に脅威を抱えたため、九州・瀬戸内海沿岸に多数の山城を築くと共に、最前線の大宰府に水城を築き防備を固めた。一方国内の政治体制を新たに構築する為、抵抗勢力の強い飛鳥から遠い大津に遷都した。更に大津は琵琶湖に面しており、陸路・海路で東山道・北陸道の交通路が通じていた。外国軍が畿内に上陸した場合に最も逃げやすい土地でもあった。
印象 発掘調査もなされているが、完全な住宅地になっている為全容は難しそう。5年余の短い宮であったことが、内外の敵の脅威に脅かされていたことを思わせる。
地図
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略史  660年、百済は新羅と唐に攻められ滅んだ。同盟国の倭国の指導者中大兄皇子は百済復興を支援すべく663年に朝鮮半島に出兵したが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に参敗した。この状況下、中大兄皇子は667年に都を大津に移し、翌年即位して天智天皇となった。671年に天智天皇が没すると、天皇の子大友皇子(弘文天皇)が大津宮で後を継いだが、大海人皇子との戦いで敗れた(壬申の乱)。大海人皇子は皇位継承して天武天皇となり飛鳥に造営した為、大津宮は5年余で亡んだ。
錦織遺跡