日本の城跡

佐和山城(別称:佐保城)

本丸・城碑
訪問日 H17年 2月
ポイント 湖東平野を一望でき、同時に関が原からの中山道と北国街道が分岐する位置にある交通・軍事両面の拠点。当城の存在は京洛背後にとどまらず、機内全域の状勢を左右する関門の一つであった。三成は当城の重要性を認識して、本丸・二の丸・三の丸の他、全山に無数の曲輪で固め、殿舎・重臣屋敷を配した。三成は関が原の戦いに臨み、堅塁の当城を詰の城に見立てていた。
印象 井伊家の菩提寺龍潭寺に寄る。古刹で石庭のある静かなお寺だ。住職と雑談。この寺の奥から、墓の間をぬって城山へ。一応コースになっているが整備されておらず、倒木が道を所々塞ぎ、また急坂で大変だった。整備してほしい。途中殆んど遺構らしきもの発見できなかった。頂上の本丸も城碑がぽつんと立っていた他、天守台跡といわれる所に巨岩が二つ鎮座していた。彦根城築城時に、三成居城のせいで徹底的に破壊し建物・石材を持ち去ったとのこと。眼下にその彦根城が見える。帰りは千貫井戸経由で帰ったが、こちらには女郎谷・太鼓丸等等遺構も多く、距離は長いが道もなだらかで整備されていた。この城の大手門は彦根城の反対側、国道8号線側にある。土塁・堀跡が残るが疲れて行けなかった。機会があれば再訪したい。
地図
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略史  鎌倉期、在地豪族佐保時綱が砦を築城。室町期に佐々木六角、京極家の支配後、浅井氏の台頭によりその将磯野氏が入城した。しかし浅井氏は織田軍との戦いで敗れ滅亡、佐和山城も開城している。本能寺の変後、豊臣秀吉は立地条件の良さに注目し堀秀政に守らせた。その後激しく城主が交替後、石田三成が入城し城郭、城下町を整備して恒久的な城構えを造った。三成が関ヶ原で敗北し、徳川家康の信任厚い井伊直政が入城したが、三成色が残る佐和山城を嫌い移築を計画したが病没した為次の直勝の時彦根城を築城して移った。
遠望
本丸
同土塁
同土塁・腰曲輪
天守台・巨岩
天守台
急崖の城壁
   千貫井戸
   
登城坂
女郎谷
太鼓曲輪
本丸方面を見る
塩硝櫓
曲輪
彦根城を見る
遠く観音寺城を見る
清涼寺(井伊家菩提寺)・佐和山城
井伊神社
龍潭寺(井伊家菩提寺)
同・殿様篭
同・石庭
彦根市内宗安寺(佐和山城移築門)