日本の城跡

賤ヶ岳砦


山頂の賤ケ岳砦碑
訪問日 H29年11月
ポイント 堀切・土塁・竪堀あり。砦からは北に余呉湖、西方に奥琵琶湖、南西には小谷城から伊吹山、更に北方には勝家が本陣を置いた玄蕃尾城が一望できる。縄張りは主郭を中心に、東と西に曲輪を構え、土塁・切岸・竪堀で固めている。東曲輪から延びる尾根先には大岩山砦・岩崎山砦を置き、西曲輪は周囲を土塁が取り巻き、そこから北西に延びる尾根先には大堀切を、更に北方の余呉湖側には竪堀が掘られている等、余呉湖西岸からの柴田軍の攻撃に備えたものであろう。
印象 眺望が良いとのことで楽しみにしていたが、あいにくの霧で何も見えず、残念。しかし遺構は、小さいが段郭や土塁・堀切が確認できた。取敢えず納得。次に大岩山砦へ期待。
地図
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略史  1583年の賤ケ岳合戦の際、柴田勝家軍の先鋒・佐久間盛政が柳ケ瀬山に陣を築き、羽柴秀吉勢の桑山重晴は賤ケ岳砦を築いた。賤ケ岳合戦当初は、この砦に桑山重晴、羽田正親、浅野与兵衛らが陣を構えていたが、羽柴秀長本陣である田上山砦と共に秀吉勢の陣城群の中心的役割を担っていた。そして柴田方の佐久間盛政により、中川清秀が守る大岩山砦、高山右近が守る岩崎山砦が陥落すると、守将の桑山重晴は降伏勧告を受けて退却するが、その後山梨子浦に到着した丹羽長秀と共に、再び賤ケ岳を奪還して籠った。その後両軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられた末、秀吉が勝利した。

ケーブルを下りて山頂へ

山頂の郭


切岸と帯郭



山頂の武将像

堀切