日本の城跡

和田城


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訪問日 R元年11月
ポイント 甲賀地方は群中惣と呼ばれる在地領主の連合体が地域支配を行っていいた。甲賀の城の特徴は、山に囲まれた地形的な特徴から、集落の中に築かれるのではなく、集落近くの小丘陵に築かれている。和田城を本城として、集落周辺の丘陵に位置した3つの支城と公方屋敷、公方屋敷支城、棚田山城、殿山城等の城塞群を配置している。城は和田川を天然の堀として、丘陵の西端に築かれた。主郭には方形の土塁が巡らされ、幅広で北側は低く、南側に向かって徐々に高くなっている。東側は三段に高く、天守台のような平坦部がある。また西方から南方部に三か所の平坦部、南方部土塁、平坦部を経て堀、更に平坦部と続いている。
印象 足利義昭や織田信長に仕えた和田惟政の居城、興味深々。田んぼを突っ切り、案内板がある所から登城。登城坂を右回りに登っていくと、井戸跡、曲輪、腰曲輪、そして虎口から高低差のある土塁で固めた主曲輪に入る。南側の堀切も良く残っている。その南に更に曲輪を設けるなど主曲輪の周囲に曲輪を配した複雑な構造になっている。ただ天守台と言われる櫓台はピンとこなかった。全体として遺構は残っているが、藪と植林の木々が邪魔しているのが残念だった。
地図
略史  和田氏の祖先は960年頃和田を領有した源満政で、室町幕府三代足利義満の頃に和田に移住した。近江国守護佐々木六角氏の重臣を務めた、和田惟政が整備築城した。惟政は興福寺から亡命してきた一乗院覚慶(後の足利義昭)をかくまい義昭を室町将軍に擁立した功労者である。しかし同時に織田信長にも仕え、三好三人衆を撃退した功により摂津国守護として任じられ、茨木・高槻城の城主を兼任、京都所司代となった。またキリスト教伝来者フランシスコ・ザビエルを保護し、信長に謁見させている。しかし足利義昭が信長に反旗を翻した時、最初信長に従っていた惟政は、後に義昭に属して高槻城に立て籠もったが、信長に攻められ、中川清秀に捕えられ慙死された。

城の周囲の田、当時は湿地や泥田か

曲輪

曲輪

腰曲輪

井戸跡?

虎口


主曲輪・土塁



曲輪

南側、民家が

削平地

堀切


土塁

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和田川