日本の城跡

茨木城

復元楼門
訪問日 H16年 2月
ポイント 鎮守府将軍・坂上田村麻呂がこの地に侵入した際、抵抗した者を捕え河原で荊の枯木で焼き殺された。荊切と呼ばれたのが茨木になったという。当地は継体天皇陵はじめ多くの古墳があるように、古くから拓けた所であり、更に京都と大阪の中間に位置し、交通の要衝であったため、度々戦乱に巻き込まれた。
印象 茨木小学校周辺が城跡だが、廃城後、すぐに田畑に開墾された為、遺構は殆んどない。しかし茨木神社東門は茨木城の搦手門を移築、最近茨木小学校の正門は楼門を復元したもので、僅かに当時が偲ばれる。
地図
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略史  応仁の乱で野田泰忠が当地に布陣、その後茨木氏の居城に。茨木氏など在地土豪は南北朝期に勢力を伸張し、荘園制を荒らした。しかし摂津守細川政元による国人一揆鎮圧により一族の多くは自刃、城も奪われた。その後、茨木氏は三好長慶の配下として茨木城主となったが、織田信長の摂津侵入で降伏、本領安堵された。しかし一向一揆・三好三人衆との戦いで高槻城の和田氏と共に信長方の前線を守ったが、池田衆との戦いで敗れ、茨木氏は滅亡した。その後荒木新五郎、中川清秀が入城したが、清秀が賎ヶ岳で戦死、後継の秀政が三木に移封され羽柴秀吉の直轄地になった。関ヶ原後、片桐且元・貞隆が入城したが大阪夏の陣直後且元が死亡、貞隆は小泉陣屋に移り当城は代官間宮氏預かりとなったが、翌年の一国一城令により廃城となった。
楼門
茨木小・城内
茨木城碑
茨木神社
同東門・搦手門
片桐町・小学校方面