日本の城跡

難波宮


難波宮
訪問日 H30年 3月
ポイント 前期難波宮は天皇の居所である内裏と重要な政務・儀式を執り行う朝堂院、および東西の官衙からなる。すべての建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。中国風の都と言われる藤原京に先行するもの。後期難波宮は同じく内裏と朝堂院を中心とする。大極殿や朝堂院の中心建物は、凝灰岩で覆われた基壇の上に礎石を置いて建てられ、屋根には蓮華文・唐草文などの瓦が葺かれていた。
印象 大阪城に隣接。大化の改新に関連するもので、歴史的に興味深かった。遺構は太極殿の基壇の復元や礎石等である。この地は難波宮、石山本願寺、そして大阪城が造営されるなど、上町台地と呼ばれる両側が崖状の台地、海に近く、四面を川に囲まれた要害等々、昔から目をつけられた立地であった。隣接する大阪歴史博物館の上の階から見るとよくわかるので推奨したい。
地図
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略史  大阪市中央区法円坂町を中心に所在する古代宮殿跡で、前期・後期の2時期の宮殿が存在した。前期難波宮は大化の改新(645年)で、蘇我氏が滅ぼされた後の難波遷都に伴って造営された孝徳朝の難波長柄豐碕宮で、天武朝の朱鳥1(686年)正月に焼失した。遷都は豪族が蕃居する飛鳥から離れること、朝鮮半島の激動に対処するには外交上の適地であった難波が重視されたと思われる。しかし653年に中大兄皇子は孝徳天皇と意見が合わず、大海人皇子らと飛鳥に移った。後期難波宮は聖武朝の726年に造営された奈良時代の宮殿。744年に恭仁京から難波宮が首都と定められたが、翌年再度平城京へと遷都された。

難波宮入口

難波宮

大阪歴史博物館

上の階から見る

 隣接する大阪城