日本の城跡

高槻城(別称:久米路山龍城)

城碑・左の石組は天守台・本丸御門の基礎石  
訪問日 H16年 2月
ポイント 京・大阪の中間に位置し、淀川の河川交通と西国街道という陸路が交差する軍事上の要衝で、秀吉の大阪城築城で一段と脚光をあびた。大阪方の押さえとして、また西国に対する要地として、淀・明石・笹山等の諸城とともに、幕府から非常に重要視された。それは大阪の陣後の内藤信正から松平康信転封までの34年間に、四家五代の譜代大名が入城、城郭の拡充を行っていることに表れている。また当城は高山右近の居城として有名である。キリシタン大名として在城した13年の間にキリシタンの町として最盛期を迎えている。天主堂、神学校のセミナリヨが建設され、最近ではキリシタン墓地が検出されている。
印象 江戸時代に入り、土岐氏、岡部氏により高槻城は天下の名城になったが、石垣は本丸・二の丸・桝形虎口の一部のみに築かれ、基本は西国では珍しく土造りであったらしい。明治に東海道本線の敷設、工兵隊の駐屯、戦災等で遺構はない。現在は本丸であった槻の木高校の脇に城址公園が出来、石垣の一部が復元されているが、どうもいまいちだ。
地図

略史  平安時代に近藤忠範が久米路山に館を築く。南北朝期に足利尊氏の命で入江氏が駿河から入る。入江氏が織田信長に敵対して敗死、和田惟政が入城したが後継の惟長が配下の高山右近に追放された。その高山氏も豊臣秀吉によって播磨船上城に移封され豊臣氏の直轄地に。次に新庄直頼が入城したが関ヶ原で西軍に与し除封。徳川氏の直轄地となり、大阪冬・夏の陣では徳川方の補給基地として重要な役割を果たした。大阪夏の陣後内藤信正が立藩。次の土岐定義が入封し、近世城郭として大改修をした。更に一国一城令で茨木城を廃城して高槻が城下町として整備された。その後形原松平、岡部、形原松平氏が入転封し、永井氏の入封で定着した。直清は畿内・西国の民政担当し初頭の幕政を担った。直期は財政再建年貢先納銀、租税率引き上げをはかり、直進は藩校を創設し子弟の教育に努めた。幕末、直輝は京都警備に当ったが、最後の直諒は激動期にあって日和見主義的態度で過ごす。
城碑・槻の木高校・本丸跡
城跡公園・三の丸跡 
本行寺山門(高槻城移築門)
工兵大隊駐屯地跡(城内)
教育センター(第一中・城内)
本丸方面
高山右近記念聖堂(カトリック高槻教会)