日本の城跡

有子山城(別称:高城)

蔵屋敷・西の郭南西側石垣
訪問日 H25年 5月
ポイント 城は標高321mの山で、但東町から続いてきた山丘の西端にある。南・西・北の三方が切りたち、盆地を潤す出石川が山の南から西に廻り北流するなどまさしく要害の地である。城は山頂に主郭・千畳敷を中心に北・西側に段郭群を配した梯郭式縄張りで、シンプルである。主要部分の郭は野面積みの石垣で固めている。この城は戦国末期から近世城郭への過渡期に存在した為、中世山城の特色を残している。主郭と千畳敷間や、西方尾根筋の段郭群の先の大堀切は見応えあるが、虎口構造が平易であったり、北西尾根筋の段郭とその中の堀切・竪堀の規模は小さい等加工度は低く、石垣以外は山名氏時代の遺構がそのまま残っている。また千畳敷や蔵屋敷・侍屋敷等が主郭周囲に配され、住居防禦系山城であった。
印象 比高310m、距離900m。尾根筋をほぼ直線の急坂で、ばら石とごつごつ石の道をふうふう言って登る。4/5ほどの平場まではとにかくきつく、道の脇のロープに助けられ、夫婦・市の人に声を掛けられなんとか。平場からは少し余裕を持って歩く。まず石垣に固められた井戸曲輪を見て、更に少し登ると忽然と石垣に固められた郭が現れた。やったあといった感じ。そこから少し崩れかけた石垣に固められた郭が続く。主郭から見る眺めがすばらしい。休憩後、奥の千畳敷に、広い、侍屋敷らしく中に数段の石塁で仕切られていた。見学中、突然ばさっという音、鹿が白いお尻を見せて転げ落ちるように逃げて行ったのにはびっくり。帰りは急坂をおそるおそるロープに頼りながら降りた。本当に疲れた。
地図
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略史  出石は但馬守護所の地。但馬守護山名氏は当初、出石北方の此隅山城を居城としたが、羽柴秀吉の但馬攻めで山名祐豊は敗れ、城は落城した。しかし山名祐豊は、子の氏政と共に残存勢力を結集して有子山に新城を築いた。しかし秀吉の弟秀長を将とする第二次但馬攻めで、有子山城は落城、山名氏政は因幡に敗走してここに但馬山名氏は200年の歴史を閉じた。その後青木勘兵衛、ついで前野長康が入封したが、長康は関白秀次の処刑に連座して自刃、替って龍野城主小出吉政が入った。吉政は関ヶ原の役で西軍に与したが、弟秀家はじめ一族の多くが東軍に与して軍功を挙げた為、許され旧領を安堵された。その後吉政は父秀政の遺領の岸和田へ転封となり、有子山城は嫡男の吉英が相続した。そして吉英は有子山城を廃して、その北山麓に居城を移した。
遠望 登城口 岩肌を見せる いよいよ登城
麓の郭跡 片竪堀 ロープが頼り 竪堀 急崖
更に登る 土橋発見! 両側の堀切
振り返る 北側段郭群最下部の平場
西側郭群方面に向かう 途中の侍屋敷跡と思われる平場
井戸郭石垣 井戸郭 もうひとつの登城道 北西側段郭群
西尾根段郭群最下部(侍屋敷跡) 振り返る
同郭虎口 次の段郭切岸 段郭
西の郭石垣 同下の郭
同の土塁 西の郭 同南西の通路 蔵屋敷へ 同石垣
蔵屋敷 主郭下の郭石垣 主郭石垣・下の郭
主郭 出石の城下 主郭北側石垣 主郭櫓台
主郭から千畳敷方面 主郭と千畳敷間の大堀切 同大堀切 主郭の切岸 主郭下の帯郭
千畳敷切岸 千畳敷 同段差の石塁
同・大石が切断 千畳敷東端の堀切 同竪堀
千畳敷北側の帯郭 千畳敷き列石 千畳敷から主郭切岸 主郭下の石取り場周辺
同下の帯郭 蔵屋敷・西の郭南西下の石垣群 同一部崩壊 同振り返る