日本の城跡

朝倉城

遠望
訪問日 H25年 5月
ポイント 朝倉城は八木川の右岸、南から北に張り出した丘陵先端の頂部にある。城はこの頂部の主郭と南側尾根に普請された南郭とからなる。そして山陰道と豊岡街道の分岐点の要地に位置している。主郭から西・北・北東方向の見晴らしが良く、規模は小さいが。主郭下に帯郭を配し、堀切・竪堀で固めている。南側の郭とは尾根筋を堀切で遮断し、郭は小郭と堀切・土塁・竪堀で防御、詰郭としての役目を持つ。
印象 朝倉氏発祥の地ということで訪問。地方豪族の山城。山を背にした城。村の墓をとことこ登り、獣柵を越えて10分程で頂部へ。それほど高くなく、防御設備も主郭とその周辺の小郭・堀切・竪堀・土塁等で要害ではない。ただ南側に大きな堀切で区切ったもう一つの郭があり、詰の役目を果たすらしい。山頂から集落を感慨をもって眺めた。遠く八木城の山も見える。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  平安末期、孝徳天皇の皇子日下部親王を祖とする一族の宗高が、但馬養父郡を統治して朝倉氏を名乗った。源平の争乱で宗高・高清父子は平家方に与したが、平家滅亡後は但馬に隠棲、のち鎌倉方に降伏した。その後高清は奥州藤原攻めで戦功を挙げ但馬の所領を安堵され、高清の子は八木・七美・宿南・田公に分地された。朝倉城は養父郡内で勢力を拡大した次男の信高が築城されたと思われる。しかし承久の乱で信高は後鳥羽上皇方に与した為、朝倉氏は所領を没収され没落、代わって八木に分地され八木氏を興し、幕府方に与した長男安高が養父郡の地頭職を獲得した。朝倉氏は八木安高の孫・高実(宗信)が継いだ。その後の消息は不明であるが、室町時代に但馬守護山名氏に仕え、戦国時代には羽柴秀吉の但馬侵攻で八木氏とともに羽柴軍に降伏したとの記録がある。朝倉城には秀吉の家臣の青木勘兵衛が入城したが、その後の城の消息は不明である。ところで越前朝倉氏は高清から数えて八代の末裔の広景と言われる。南北朝期に広景・高景父子は足利尊氏の被官斯波高経に与して戦功を挙げ、高経に従い越前国に移り、後に一乗谷を支配拠点として越前を統一した。
登城口 周辺の宝篋印塔 同の地蔵堂 墓の間を登る
獣柵 主郭に直登する尾根道 斜面を廻りながら登る道、南郭方面 背後の山々 主郭を見る
散らばる石塁 主郭帯郭 主郭虎口 同・石垣 主郭
主郭南東下の腰郭 主郭櫓台 主郭 主郭から八木城方面 主郭から南郭方面
朝倉集落 主郭櫓台 主郭北西下の腰郭 同の堀切
同から見上た主郭・石垣
主郭と南郭間の堀切
南郭 土塁 竪堀 郭・堀切