日本の城跡

出石城(別称:石城)

二の丸高石垣と本丸西隅櫓
訪問日 H25年 5月
ポイント 城は有子山山麓の北斜面を四段に造成し、上の段より稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪を階段状に配した。二の丸東に山里丸、西に西の丸が併設され、三の丸の対面所は松平氏以降の藩主の居所となった。これら曲輪を囲むように山下に内堀がコの字状に巡らされた。虎口は3ヶ所で、北辺中央に大手門を置いた。天守閣はなく、稲荷曲輪が物見の役を代行し、櫓はすべてで4棟で、規模は小さい城である。城下は碁盤目状に整備され、各所にT字路を設けて防備にあて、又要所に櫓形鐘楼を備えた経王寺はじめ多くの寺院を配置して防備の一端を担った。
印象 ここも人気があり、観光客が多数いた。しかも中国人観光客が多いのにビックリ。山麓の出石城は山を背にして、高石垣を築いて段状に配置。橋が2個残っており、最近整備したので綺麗だった。大名の城としては小さいが石垣には目を見張った。観光用に三の丸、家老屋敷を大胆に改変していた。かなり観光客向けの店が多くなっていたが、少し奥に入ると城下町の雰囲気は充分感じられた。昼食に出石名物の皿そばを食す。
地図
地図をクリックすると拡大しま

略史  関ヶ原の役で有子山城主、小出氏は御家存続の為に吉政は父の岸和田城主秀政と西軍に、弟秀家は東軍に与して戦った。結果、秀家の軍功により出石の本領を安堵され、4年後吉政の嫡男吉英は有子山城を廃して、麓に出石城を新築した。(秀家は役後病没、父秀政死去後、吉政は岸和田城主に)その後吉政の死で吉英が岸和田藩を相続したが、7年後吉英が出石藩に移封となり、出石藩を相続していた弟吉親は園部に移り立藩した。吉英後出石藩は九代100年間続いたが、最後の英及が早世、嗣子続かず出石藩小出氏は断絶した。(園部小出氏は明治まで継承した。)この時藩札の引き換えを拒絶された領民の暴動が発生した。次に岩槻から藤井松平忠周が入封、若年寄となり上田に転封し、上田から仙石政明が入った。仙石氏は八代続いて明治まで在藩したが、七代久利の時におきた後継争いの御家騒動で約半分の三万石に減封された。その後も内紛が絶えず、脱藩した家臣が勤王の生野の変に参加、その鎮圧の出兵と多難な幕末であった。
遠望 三の丸(水堀はなかった) 登城橋・登城門(近年のもの) 内側からの登城門
西の丸 二の丸高石垣 同石垣と本丸西隅櫓 二の丸下曲輪 二の丸虎口
二の丸 二の丸と本丸西隅櫓 二の丸から三の丸・城下方面 二の丸から下曲輪と城下方面 二の丸下曲輪・虎口
同・虎口 二の丸下曲輪東側水路・石段 同水路・本丸石垣 二の丸東の山里丸石垣
山里丸 同虎口 本丸東隅櫓・石垣 本丸 同・感応殿
本丸東隅櫓 本丸から稲荷曲輪 同高石垣 稲荷曲輪石垣
稲荷曲輪虎口 稲荷曲輪 同・稲荷神社 稲荷神社高石垣 稲荷曲輪から本丸・城下方面
同から西側城下 稲荷曲輪から本丸西隅櫓 本丸西隅櫓石垣 西の丸西側石垣
三の丸と辰鼓楼・大手前通り 大手門跡と辰鼓楼 辰鼓楼下の内堀 三の丸(城主居宅・対面所があった) 家老仙石左京居宅
同家老門内側より 同外側より 同・内町通り
同西門跡
同の勝林寺
資料館(豪商跡) 宵田の町並み 城下