日本の城跡
竹田城(別称:虎臥城)
略史 室町期に但馬守護の山名宗全が、家臣の太田垣光景に築城させ城主とした。太田垣氏は但馬生え抜きの国人であったが、南北朝期に関東から来た山名氏に誘降され、同じ有力国人であった同族の八木氏と共に山名氏に臣従し、山名四天王と呼ばれた。太田垣氏は応仁の乱で活躍、更に隣国細川勝元の竹田城侵攻を撃退するなどして、南但地方に勢威を張り、山名氏を離れ独立していった。しかし織田信長の命による羽柴秀吉の但馬征伐で、城主太田垣朝延は開城、秀吉は弟秀長を入城させた。秀吉はその後山名氏の本拠を衝き、山名氏の勢力を但馬から駆逐した。太田垣氏は秀吉が帰った後の竹田城に入ったが、秀吉が播州全土を平定後、竹田城は再度秀吉の制圧下となり、桑山重晴が城主となった。5年後桑山氏は和歌山城主に移封され、播州龍野城主赤松広秀が入城した。広秀は応仁の乱に赤松家を再興し、置塩城を築いた赤松政則の曾孫で、秀吉の播磨侵攻の時に軍門に降り、秀吉の四国征伐・九州島津氏征討・朝鮮の役等に従軍した。赤松氏は鶏籠山城はじめ多くの石垣の城を築いており、現在の総石垣造りの竹田城は広秀が拡張改修したものである。広秀は学問を好み、朱子学の開祖藤原惺窩とも親交があり、民政に励み領民から慕われていた。しかし関ヶ原の役で、広秀は西軍に属し、田辺城の細川幽斎を攻めたが、戦い半ばで西軍の敗報を受け竹田城に引き上げた。その後広秀は東軍として、亀井茲矩を助けて宮部氏の鳥取城を攻めて軍功を挙げたが、城下に火を放ち延焼させた咎を受け切腹自刃、城も廃城となった。 |
遠望 | 竪堀 | 南千畳石垣 | 竪堀 | |
大手虎口への登城口 | 大手虎口へ(正面三の丸石垣・右大手見附石垣) | 北千畳の石垣下を廻る | 同 | 同 |
同 | 同から本丸方面 | 同石垣 | 同 | 同周辺から三の丸櫓台を |
大手虎口手前の三の丸石垣 | 大手虎口・見附 | 同内部から | 北千畳 | |
同高石垣・櫓台(北側) | 同から三の丸石垣・櫓台 | 同から本丸天守台方面 | 三の丸桝形虎口 | 同櫓台石垣 |
同内部から | 同三の丸から | 三の丸・桝形虎口 | 同・櫓台 | |
同から大手方向・高石垣(東側) | 同から二の丸方向・櫓台(東側) | 三の丸西側桝形虎口 | 三の丸西側石垣 | 三の丸から二の丸武の門櫓台 |
武の門 | 同右側石垣 | 同武の門(左側) | 同帯曲輪東側から・武の門・大手方面 | 武の門右側石垣(内部より) |
同帯曲輪西側から武の門・北千畳方面 | 同帯曲輪から二の丸石垣 | 同帯曲輪・二の丸虎口・石垣 | 二の丸虎口 | 同石垣 |
同帯曲輪から本丸天守・平殿方面 | 二の丸から南千畳方面 | 二の丸 | 同二の丸から本丸・平殿方面 | 同・手前に仕切石垣 |
同仕切石垣 | 本丸天守台石垣と下の平殿 | 同 | 同 | 同周辺から西側高石垣・北千畳方面 |
本丸北の桝形虎口 | 同 | 同 | 本丸 | 本丸天守台 |
本丸西側下の奥殿 | 本丸より南二の丸・南千畳方面 | 本丸東南の虎口 | 同虎口階段 | 同 |
同 | 天守台下の平殿 | 同 | 同周辺から見た天守台石垣 | 南二の丸虎口から櫓台 |
同内部から | 同櫓台石垣 | 同振り返る | 同から本丸方面 | |
南二の丸 | 同手前は東の虎口・櫓台 | 同の高石垣 | 同東の虎口・櫓台 | 南二の丸虎口 |
同内部から振り返る | 南千畳 | 同東南隅櫓台・虎口 | 同 | 同から南千畳南端を見る |
同から二の丸・本丸方面 | 同櫓・本丸方面 | 同から本丸方面 | 同から大手方面 | 南千畳高石垣 |
南千畳から本丸方面 | 同にある石碑 | 南千畳搦め手門・南二の丸石垣 | 同石垣 | 石塀状の石塁で固めた詰めの丸の花屋敷 |
同 | 花屋敷側の本丸石垣 | 同と奥殿 | 城下 | |
同 | ||||