日本の城跡

八木城(別称:石城)

二の郭から主郭を見る
訪問日 H25年 5月
ポイント 城は八木川の左岸、山陰道に面した丘陵の尾根上造られた山城。頂部に主郭を置き、そこから尾根を削平して東側に七段の曲輪を、北側に六段の曲輪、更に南側に九段の曲輪を配している。これを放射状連郭式縄張りという。そしてこの城の特徴として、周囲の山城が堀切・竪堀群を多用したが、主郭の背後に一本の堀切があるのみで、竪堀群も使わず高い切岸と段郭群を防衛ラインとしていること。更に主郭東・南・西の三方には10mの高石垣が構築され、南東隅には櫓台が築かれており、時代に先駆けた工法である。また主郭北東側は土のままであるが、これは織豊系城郭に多い特徴で、別所氏が徐封されるまで主郭を改修し続けていた結果であろう。
印象 比高230mの山城。山麓の集落の自治会館に駐車させてもらう。親切な奥さんにパンフを貰う。獣除けのフェンスを開けて、杖を借りて登る。道は整備されているが、なにしろ直登、疲れる。10分程で東屋にやっと着く。そこから小郭が見え始め、三の郭・二の郭そして主郭へ。主郭を固める石垣が見応えある、崩れた石垣が風雪を感じさせる。帰りは坂道に足をとられそうになり、更に膝が踊っていた。朝倉氏縁の城として、山道を強行したが、結構楽しかった。朝倉城とは規模・構えとも勝っていた。
地図
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略史  八木城(土城)は前九年の役で戦功あった閉伊氏が八木荘に入部して築城したといわれる。鎌倉時代初期、但馬日下部氏の嫡流朝倉高清の長男安高が八木荘を領し、八木氏を称し土城を改修し入城した。承久の乱で宮方に与した宗家の朝倉氏は没落したが、幕府方に与した八木氏は乱後、北条氏に近き勢力を拡大し、一族は但馬各所の地頭職を任じた。南北朝期には八木泰家は足利尊氏方に与し、嫡子重家は但馬守護職の山名氏の被官となった。この頃、八木氏は土城と同じ尾根の東方に新城(石城)を築いて移ったという。その後八木氏は山名氏の四天王の一人に数えられ、室町末期には八木宗頼は山名宗全のもとで、一時的に但馬守護代にもなった。そして山名氏の勢威が落ちて行くと、八木氏はじめ但馬国衆は独立色を強めて主家を超えて他国の勢力と結びついて行った。八木氏は太田垣・垣屋氏らと毛利方に属し、織田信長の重臣羽柴秀吉の侵攻に対抗したが、但馬の毛利方の孤立により八木城主豊信は降伏した。そして豊信は秀吉の家臣として因幡侵攻作戦に参加して八木城を去り、城には別所重棟が入城した。この時、別所氏によって現在見られる主郭の石垣造り等の改修がなされたものと思われる。しかし別所氏は関ヶ原の役で西軍に属した為除封され、八木城は廃城となった。八木豊信は因幡若桜鬼ヶ城の城将となったが、毛利方の反攻に遭い退去、その後の消息は不明であるが、一説では宮崎佐土原城主・島津家久に仕えたと言う。また八木氏は垣屋氏へ養子に入っていた豊信の弟信貞が八木姓を名乗り、子の光政が関ヶ原の役で東軍に属し所領を賜った。更に子の宗直の時、加増を受け武蔵・下総・上総に知行した。
自治会館から遠望
獣除けフェンス、杖が置いてある
山麓の家臣住居の堀か?
同じく館跡の感じ
長い坂の始り 両側は急崖 石垣?近世の物 城まで500m、まだまだ
登れ、登れ。土橋発見?
小郭 城郭が見えた! 東の郭群の始り(石仏) 東の小郭群
急崖が続く
三の郭切岸
三の郭から二の郭切岸を見る 三の郭 下の帯郭
二の郭
主郭虎口方面 主郭北東側の土の切岸 同主郭の石垣造りの切岸
同石垣内部 同石垣切岸
同北西側の高石垣 同北西側・南西側の高石垣 主郭北西下の腰郭(土城方面側)
土城との間の大堀切 同土城側から見る 二の郭から主郭虎口 主郭南西側高石垣 同崩れた高石垣
主郭への登城路 主郭虎口石垣 同虎口 同虎口方面を見る 主郭櫓台、前方の山が土城
主郭内部の南西側石垣残り 主郭櫓台 主郭 主郭内部の石塁
同石塁