日本の城跡

福知山城(別称:横山城・臥竜城・八幡城)

復興天守
訪問日 H24年 1月
ポイント 城は由良川と土師川の合流点にある丘陵上突端部に位置し、川を天然の堀とし、更に川から水を引き込んで二重・三重の水堀を造っている。更に東・北・西の三方が断崖絶壁になった要害である。また当地は山陰道の陸運の要所だけでなく、由良川を通じて日本海沿岸とも繋がる水運でも栄えた。本丸は東端に置き、中央に三層四階の天守閣が聳え、その西続きに二の丸・更にその西方に伯耆丸、そしてその南に内記丸、北に大膳丸等を連郭式と梯郭式で構成した縄張りである。城の見どころの一つに野面積みの石垣がある。一見粗雑に積み上げたようだが大石を奥で組み合わせた堅固なもの。そして石の調達に苦心したらしく、領内各地に石の供出を命じ、寺から墓石・供養塔・五輪塔や石仏・石臼等をかなり強引に運ばせた転用石が目立っている。その数500点以上と言われ、これほど多い使用例は大和郡山城と当城のみである。二つ目は本丸天守東にある井戸である。”豊磐の井”といわれ、深さ50mもあり、城郭内にある井戸としては日本一の深さを誇り、今も水を湛えている。
印象 山陰線が側を通り、いよいよ来たなといった感じで駅を下りる。最初に由良川の対岸にある猪崎城に行く。そこから由良川を渡り、城門が移築された明覚寺の前を通り城郭へ。天守閣が再建され、その周辺も整備されている。かなり大きな城であったが、開発で二の丸が消滅。二の丸と本丸は堀切で仕切られ、同じレベルであったが、市の造成事業の為削られてしまったらしい。今はかなりの段差がある。天守閣の管理人が丁寧に説明してくれた。本丸部分の石垣と井戸は迫力があった。特に石垣は野面積みで荒々しく、寺社の五輪塔・燈籠等が転用されて石垣の中に組み込まれていた。なんとなく不気味でもあった。伯耆丸から見ると、天守・石垣がきりっと睨んでいるようだった。いろいろ面白かった。
地図
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略史  戦国時代、丹波国は室町幕府管領細川氏の支配地であったが、実権は守護代の内藤氏や波多野氏・赤井氏などが握っていた。その頃小笠原長清の後裔、塩見頼勝が、福知山盆地の朝暉ヶ丘丘陵に掻上城を築いて立て篭もったのが始り。頼勝の嫡子頼氏は地名にちなんで横山氏を名乗り、砦も横山城と呼ばれた。織田信長の丹波平定の命を受けた明智光秀は、口丹波の亀山城を落し、ついで頼氏の子信房が籠る横山城も攻め落とした。丹波一国の領主となった光秀は、甥の秀満を城代として城を近代的な城郭へ大改修し福知山城と改名した。光秀の乱後、豊臣秀吉の領地となり杉原家次、小野木重勝が城主となったが、関ヶ原の役後有馬豊氏が入封し城と城下町を整備したが、過酷な検地を行い後の禍根を残した。その後岡部・稲葉・松平氏、そして名族の朽木稙昌が入封、明治まで200年在藩した。朽木氏は近江守護佐々木氏の後裔、高島郡の朽木谷の在地領主で時代の変転を乗切り、秀吉・家康に仕え家光の小姓となった土浦藩主稙綱の子である。稙昌は石川流の武家茶人として聞こえ、歴代藩主も学術文化に優れた業績を残した。ただ他藩同様、財政は困窮し倹約等改革を断行したが、効果なく一揆が頻発した。幕末、譜代の立場と尊王攘夷の風潮の中、山陰道鎮撫使の過酷な仕打ちに耐えた。
猪崎城の帰りに見る 由良川から見る 明覚寺山門(移築城門)
法鷲寺山門(移築城門)
大手方向から天守・小天守
左門丸石垣
多聞櫓風の福知山市美術館
城下の法川から
登城路
本丸土塁
本丸石垣
同野面積み石垣
同・転用石
発掘された転用石 同本丸帯曲輪に展示    同・本丸虎口へ
本丸石垣・天守 本丸銅門番所・北門 本丸より手前二の丸跡、小山が伯耆丸 転用石展示場
天守台石垣 同・転用石 本丸虎口 転用石
豊磐の井と本丸釣鐘門 本丸・朝暉神社(朽木氏を祀る)と鉄砲石 本丸釣鐘門 豊磐の井 天守・小天守
天守より、左奥に猪崎城
銅門番所
本丸腰曲輪
天守・続櫓・小天守
  小天守
小天守・天守
  小天守・石垣
  
小天守石垣・北門
本丸石垣・帯曲輪
二の丸石垣
二の丸と伯耆丸間の堀切址
伯耆丸
同から本丸、手前が二の丸
同の堀切跡・土塁
清水口門