日本の城跡

柏原陣屋

陣屋長屋門
訪問日 H24年 1月
ポイント 織田家は2万石で入封したが、実高は一万石に足りなかった。この為入部後も藩邸はなく、亀屋忠助宅を仮御殿に、藩士も民家に分宿する有様だった。移封後19年後にようやく幕府より藩邸建設の許可を得た。この時の御殿は100年後に全焼したが、再建され一部が現存する。これは桧皮葺の唐破風と千鳥破風を持つ玄関部分と、桟瓦葺の寄棟造りの御殿で、移築されずに元の位置に残る全国唯一の陣屋御殿である。また長屋門は唯一火災を免れた建物。更に大手門脇にあった信休が柏原に転封時持参した太鼓が吊り下げられている太鼓櫓が大歳神社に移築現存している。
印象 陣屋御殿、長屋門、太鼓櫓がしっかり残っている。堂々たる風格がすばらしい。ここにあの織田信長の嫡流がこの山深い地に住んでいたのかと、感慨ひとしおだ。書院玄関にある”木瓜紋”がさびそうだった。他の遺構は、役所・小学校関係、住宅開発等で消滅している。城主の墓地、八幡神社、織田神社、木の根橋等興味深いもの多い。歴史のある町。
地図
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略史  豊臣期に織田信長の弟信包が伊勢安濃津から入封した。信包は秀吉の遺命で秀頼を補佐し、関ヶ原の役では西軍に与したが、戦後幸運にも本領を安堵された。信包の死後に起きた相続争いの危機も乗り切って、信則・信勝と続いたが、信勝は嗣子無く28歳で死去した為、除封され廃藩となった。45年後、一族の織田信休が大和松山から入封して再立藩した。信休は信長の弟信雄の系統で、父信武は松山藩主であったが藩内の対立抗争から老臣を惨殺のうえ自刃した。しかし織田家嫡流の家柄を重んじられ、信休は減封のうえ準国主の格式から並の大名に格下げのうえ移封存続が認められた。織田家は以後明治まで173年に亘り在封した。歴代藩主は信休はじめ、資質英遇な人物が多かったが、慢性的財政の逼迫から度々農民暴動が発生したり、お家騒動が起きたり、藩政は幕末まで不安定であった。最後の藩主信親は鳥羽伏見の戦いで新政府軍に参陣、無事明治期を迎えた。
長屋門 御殿跡
玄関・表御門(書院) 織田家木瓜紋 内部
大手会館 廃寺徳源寺・織田家廟所
同土塀 武家屋敷の街並み
柏原高校 八幡神社・三重塔 八幡神社 織田神社前の木の根橋 織田神社
柏原町役場 太鼓櫓