日本の城跡

丹波亀山城(別称:亀宝城・霞城)

本丸石垣
訪問日 H11年 4月
ポイント 明智光秀が織田信長を本能寺に討つ為出陣した城。保津川を北に望む台地を利用した平山城。高石垣を本丸を中心に各曲輪を内堀、外堀で囲んだ輪郭式縄張。明治に城跡は大本教団に移管されたが、その後の教団弾圧で遺構は大きく破壊されたが、現在は教団により、石垣等一部復元している。
印象 宗教法人大本教の本山、聖地になっている。始めびっくり、黒門があり恐る恐る入らせてもらったが、付近住民も通っていたので見て廻る。教団弾圧の為か、遺構は少なくなったようだが、一部石垣・水堀が残っていた。ただ、入れない所もありすっきりしなかった。光秀謀反、教団弾圧とついていない城だ。
地図
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略史  この地には八木城主内藤氏の支城・荒塚城があったが、明智光秀が八上城の波多野秀治を攻めた功積が認められ、織田信長よりこの地を与えられた。光秀は荒塚城を拡張、整備して丹波統治の本拠地とし、民政にも力を注いだ為民衆の評価は高かった。光秀死後、羽柴秀勝、小早川秀秋が入城、次に石田三成、前田玄以が領有した。関ヶ原後、岡部長盛が入封立藩し城郭と城下町を整備した。その後大給松平・菅沼・藤井松平・久世・井上・青山氏と譜代大名の入転封後、形原松平信岑が入封定着した。藩主の交替が激しく、更に領地の入り組みと飛地の複雑さで藩政に一貫性が無かった。信道は奏者番兼寺社奉行に昇進、”領中刑律”を制定し安定した藩政の指針を示した。幕末、信正は佐幕藩として新政府に疑われ、鎮撫使に攻撃された為恭順を示した。
遠望
外堀
石垣
櫓台石垣
石垣
教団入口
城内石垣
三の丸石垣・内堀
教団建物・堀跡
教団本部入口