日本の城跡

黒井城(別称:保月城)

主郭・虎口
訪問日 H25年 5月
ポイント 標高356mの猪口山の山頂ピークに主郭を置き、5方向に延びた尾根に前衛陣地を築いた大規模城郭である。山頂の本城域は東西に細長い稜線を階段状に削平して、主郭・二の郭・三の郭を配置した単純な構造で、三の郭の東側に東曲輪、主郭の西側に西曲輪を設け、北・南側下に帯曲輪が巡らされている。形態的には古く単純なタイプであるが、各郭間の段差・虎口部分には石積が使用され近世仕様で改修されている。また大手筋にあたる南側尾根の中腹に段曲輪群を造り、更に本城域の南側・南東側下にも石踏の段・太鼓の段が構築し固めている。
印象 今回最後の山城に挑戦。興禅寺脇の坂道を登り駐車場へ。比高は高くはないが結構きつい登城坂を、山頂までの標識を楽しみに一歩一歩登る。三段の曲輪を通り、太鼓の段を過ぎて石踏の段へ。立派な東屋があり、その下に数段の曲輪が残る。訪問者と話ながら一休み。いよいよ楽しみの本城域に登っていくと、なんと途中で中国人学生の集団が降りてきたのにはびっくり。なんでこんな田舎の山城にきてくれたの?少し行くと東曲輪の石垣が目に飛び込み、胸躍る。三の郭・二の郭・主郭、いずれも崩れかかった野面積みの石垣が残り、雰囲気は最高!主郭で360度パノラマの景色を楽しみながら、握り飯をほおばる。その後主郭下に降り、帯曲輪・西曲輪を一周。帰りは急坂を恐る恐る降ったが、楽しい城郭であった。今回は行けなかったが、周囲の尾根筋には千丈寺・的場等の砦群があり、巨大な城塞であったらしい。
地図
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略史  黒井城は南北朝期、足利尊氏に傘下で箱根で軍功を挙げた、赤松貞範が丹波春日野荘(本貫地は播磨)を与えられ築城したという。赤松氏はその後五代120年間に及びこの地域を支配したが、勢力減退に伴い隣接する氷上郡を支配する赤井氏の属城となり、同族の荻野氏が入城した。戦国期、赤井氏から朝日荻野家に入った直正は、主家筋の荻野秋清を謀殺して黒井城を乗っ取った。更に後屋城主の兄赤井家清の死去に伴い、嫡子忠家の後見となり荻野・赤井一族の統帥者になった。ついで丹波守護代の内藤宗勝を倒し、八上城主波多野秀冶と並ぶ丹波の有力国人に成長した。この時に大幅に城を改修し現在の城郭となった。しかし織田信長の勢力が丹波に及ぶと、忠家と共に信長に降り、丹波三郡を安堵された。一年後直正は山名氏の此隅山城を攻めたことから、信長と対峙することになったが、丹波侵攻する明智光秀勢を八上城の波多野秀冶と呼応して黒井城に籠城して撃退した。しかし光秀は金山城を築いて両城を分断、但馬の羽柴秀長の支援もあって、八上城の陥落に続いて黒井城もついに落城した。丹波平定後、黒井城には光秀の家臣斎藤利三が入城、山崎の合戦後は堀尾吉晴が入ったが、4年後近江佐和山に転封となり廃城となった。
遠望 獣除けのフェンス、いよいよ登城 主郭まで700m この辺から小曲輪群が続く
三段曲輪跡
曲輪
堀切 曲輪 同、主郭まで500m 土橋
堀切 周囲の急崖 竪堀 太鼓の段
浸食激しい尾根
石踏の段 その下の段曲輪 そこからの城下
いよいよ本城へ 虎口のような巨石 最後の踏ん張り 手前が東曲輪と三の郭石垣
東曲輪 三の郭石垣 多田砦方面 三の郭虎口 三の郭と二の郭石垣
三の郭 二の郭虎口 二の郭虎口内部より
二の郭西側張出し 二の郭と主郭方面
主郭と二の郭間の土橋・堀切
同虎口石垣
同堀切 主郭西側虎口 同石垣 主郭西側石垣
同からの眺望(古墳)
主郭 主郭から西曲輪 東側の切岸
西側の切岸 二の郭西側の張出し 同石垣 同西側帯曲輪から見上げる
同帯曲輪・西曲輪方面 西曲輪から主郭切岸 主郭東側帯曲輪輪と切岸
主郭と二の郭虎口辺りを見る 東側帯曲輪 二の郭東側石垣・切岸