日本の城跡
黒井城(別称:保月城)
略史 黒井城は南北朝期、足利尊氏に傘下で箱根で軍功を挙げた、赤松貞範が丹波春日野荘(本貫地は播磨)を与えられ築城したという。赤松氏はその後五代120年間に及びこの地域を支配したが、勢力減退に伴い隣接する氷上郡を支配する赤井氏の属城となり、同族の荻野氏が入城した。戦国期、赤井氏から朝日荻野家に入った直正は、主家筋の荻野秋清を謀殺して黒井城を乗っ取った。更に後屋城主の兄赤井家清の死去に伴い、嫡子忠家の後見となり荻野・赤井一族の統帥者になった。ついで丹波守護代の内藤宗勝を倒し、八上城主波多野秀冶と並ぶ丹波の有力国人に成長した。この時に大幅に城を改修し現在の城郭となった。しかし織田信長の勢力が丹波に及ぶと、忠家と共に信長に降り、丹波三郡を安堵された。一年後直正は山名氏の此隅山城を攻めたことから、信長と対峙することになったが、丹波侵攻する明智光秀勢を八上城の波多野秀冶と呼応して黒井城に籠城して撃退した。しかし光秀は金山城を築いて両城を分断、但馬の羽柴秀長の支援もあって、八上城の陥落に続いて黒井城もついに落城した。丹波平定後、黒井城には光秀の家臣斎藤利三が入城、山崎の合戦後は堀尾吉晴が入ったが、4年後近江佐和山に転封となり廃城となった。 |
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