日本の城跡
篠山城(別称:桐ヶ城)
略史 当地には波多野長治が支配する八上城があり、明智光秀が攻略後、城代支配となっていた。関ヶ原後、徳川家康は姫路・彦根等大阪城攻略の包囲網を整えてきたが、山陰道が通り京・大阪への交通の要衝篠山盆地に新城築城を計画、外様の八上城主前田玄以に代え、徳川一門の松平康重を入城させた。築城にあたり普請総奉行に池田輝政、縄張奉行に藤堂高虎を命じ、西国諸侯を中心に20諸侯に夫役させた天下普請であった。康重が岸和田に移封後も藤井松平、片原松平氏、そして青山忠朝と重要譜代が入封、青山氏は明治まで在藩した。青山氏は寺社奉行、老中と幕政を担う者多く在府が長い為、藩政に関与せず年貢増徴に対する一揆、強訴が多発した。忠裕は青磁の”王地山焼”の藩窯を開き殖産に貢献した。幕末、譜代の立場から鳥羽伏見では出兵したが、新政府軍の丹波進攻に際し開城、恭順した。 |