日本の城跡

篠山城(別称:桐ヶ城

遠望
訪問日 H15年 7月、H24年 1月
ポイント 輪郭式と梯郭式が併用された平山城。敗北につながると嫌われた北方に大手をもち、ほぼ城地が正方形になっている。巾45m.、一辺が400m.の外堀が囲み、16万uの規模。更に打込ハギで積まれた6万個の高く急傾斜の石垣が迫る。禄高の割りに大きくなったのは篠山の岩盤が固く、掘削できずやむなく拡張されたという。
印象 途中、堀が見え東馬出のところから入る。期待が膨らむ。大手道に行くと本丸の高石垣が見えてきた。立派だ。復興され、木の香りが残る大書院を見て本丸跡へ。綺麗に整備され、御殿の各案内もあり分かり易い。枯れることもない井戸がでんと控えていた。建てられることがなかった天守台に登る。周辺の山々、丹波富士(八上城跡)が近くに見える。戦闘用の城として作られたとのことで、石垣、堀が印象的だ。南馬出も整備され、近くに茅葺の武家屋敷、長屋門が残っている。篠山町の城に対する気持が伝わる。JR鉄道から外れたせいか、城下町に裁判所跡を利用した美術館、藩庁門等歴史が残る町でゆっくり散策したいところだ。H24年に猪料理を食べに行った時、武家屋敷街を撮る。
地図
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略史  当地には波多野長治が支配する八上城があり、明智光秀が攻略後、城代支配となっていた。関ヶ原後、徳川家康は姫路・彦根等大阪城攻略の包囲網を整えてきたが、山陰道が通り京・大阪への交通の要衝篠山盆地に新城築城を計画、外様の八上城主前田玄以に代え、徳川一門の松平康重を入城させた。築城にあたり普請総奉行に池田輝政、縄張奉行に藤堂高虎を命じ、西国諸侯を中心に20諸侯に夫役させた天下普請であった。康重が岸和田に移封後も藤井松平、片原松平氏、そして青山忠朝と重要譜代が入封、青山氏は明治まで在藩した。青山氏は寺社奉行、老中と幕政を担う者多く在府が長い為、藩政に関与せず年貢増徴に対する一揆、強訴が多発した。忠裕は青磁の”王地山焼”の藩窯を開き殖産に貢献した。幕末、譜代の立場から鳥羽伏見では出兵したが、新政府軍の丹波進攻に際し開城、恭順した。
三の丸より本丸方向・石垣・内堀跡
三の丸より二の丸への北側大手口
 
同大手口表門
模擬鉄門付近石垣
二の丸模擬鉄門
同内側より
二の丸大書院
二の丸から本丸
二の丸
二の丸犬走り・井戸
本丸
本丸天守台
本丸・青山神社
本丸井戸
三の丸より二の丸石垣
二の丸犬走りより内堀・三の丸[篠山中)
 
同より三の丸
本丸埋め門
三の丸より本丸埋め門を・手前内堀跡
本丸犬走り・内堀
  
    本丸石垣・犬走り
本丸・二の丸・犬走り
   
内堀・二の丸石垣
外堀
二の丸より三の丸と丹波の山々
外堀
東馬出し
外堀
南馬出し
武家屋敷長屋門
同・外堀
藩庁表門
歴史美術館(旧裁判所)
武家屋敷
外堀
武家屋敷街