日本の城跡

園部城

本丸・巽櫓・表門
訪問日 H16年 2月
ポイント 外様の小藩の園部藩は初代小出吉親より明治まで一度も国替えがなかった。まずこの地が東・南・西の三方に山があり、北には園部川が流れ、自然の要害であった。そして幕府の意向に細心の注意を払い園部城は天守を持たなかったこと。(代りに背後の小麦山に三層の櫓を築いた)城下町の建設にも気を配り、園部川の流れを北に湾曲させて町域を広げ、堅固な堤防を構築して氾濫を防いだこと等民の信任を得た等による。そして維新時、園部城は京都に近く地の利があったことから、御所に万一のことがあれば、天皇を迎える行在所の候補であった。その為、時代の趨勢と異なり慶応の時に城の修築に全力を尽くす等、影で大きな役割を担った。
印象 園部駅は町の中心から離れ、歩いて20分程のところに城跡があった。園部高校になっている。櫓・門・番所・石垣等が残っている。後の小麦山の頂に三層の櫓を置き、詰城の役目を果たした。楼門形式の本丸表門、全国でも珍しい番所、二層の巽櫓がそのまま学校の正門や郷土館に使用され、時代劇に出るなど今も生きているのが面白い。城の前方の天神山に日本で初めての天満宮、生身天満宮がある。
地図
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略史  近世園部城築城以前は荒木氏綱の城郭があった。江戸時代に小出吉親が出石から入封立藩。外様小藩ながら英貞、英持は奏者番、寺社奉行、若年寄に栄進した。英筠の時天明の大飢饉の為 農民一揆が発生、領内への流入を防ぐ為、篠山藩の応援を得て鎮圧。また藩校を創設し子弟の教育に注力した。英教はペリー来航で持論の開港拒絶を展開、財政では煙草の専売を進めた。戊辰時新政府に帰順し、山陰道鎮撫総督に従軍した。
城碑
表門
本丸・土塁
表門・巽櫓・番所
本丸塀・石垣
巽櫓・高校・内堀跡
土塁
二の丸から小麦山
小麦山・神社
二の丸・国際交流会館
 
二の丸・土塁・堀跡
三の丸から本丸を
遠望
生身天満宮