日本の城跡
田辺城(別称:舞鶴城)
略史 丹後平定の功により、織田信長から丹後の地を与えられた細川藤孝・忠興父子は、宮津に本城を置き田辺・峰山に支城を築いて治めた。関ヶ原の役の発端となった徳川家康の会津討伐で、忠興は家康に味方して参陣した。留守を守る藤孝は石田三成方の福知山城主小野木氏の攻撃を受けた為、宮津城を破却し田辺城に籠城した。藤孝は西軍の大軍を相手に奮闘、更に「古今伝授」の唯一の継承者である藤孝の死を憂慮した後陽成天皇の仲裁もあり、50日間持ち応え大軍を田辺に釘づけにした。役後細川氏はその功により、豊後中津に転封となり、代わって京極高知が入封した。高知死去後、遺言により宮津・田辺・峰山の三藩に分知され、それぞれ高広、高三・高信が立藩した。京極氏は四代にわたり治政し、その間三の丸の造成、城下町の整備を行った。高盛の時、豊岡に転封、代わって京都所司代の牧野親成が入り、城を整備し、十代に亘り田辺を治め明治に至った。牧野氏歴代藩主は寺社奉行等幕政を担った。節成は繭・漆・藍等を専売し財政再建を試みたが失敗。幕末京都御所・将軍警護等にあたったが、戊辰時は鎮撫使に開城した。 |