日本の城跡

田辺城(別称:舞鶴城)

模擬隅櫓と復興大手門
訪問日 H25年 5月
ポイント 田辺城は京洛背後の日本海交易港を押さえる目的で築城された。東に伊佐津川、西に高野川、北は舞鶴湾に臨み、南は低湿地帯と四方を自然の要害で囲まれている。加えて若狭街道や京街道、宮津街道が交叉する要衝でもあった。この中に堀で囲った本丸・二の丸・三の丸・外曲輪などを縄張りした平城である。鶴が舞うような形から舞鶴城とも称された。
印象 町中に埋没。立派な城であったが、学校・役所・JR・住宅開発等でかなり改変している。しかし最近整備したらしく、大手門・櫓・石垣が綺麗に復元していた。しかし城郭の雰囲気が乏しく、ただ建物があるといった感じだった。JR線が本丸の近くを横切り、特急電車が迫ってきたのにびっくり。もうあとには戻れない。縄張りがかなり改変している為、遺構の説明は一部のみ。
地図
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略史  丹後平定の功により、織田信長から丹後の地を与えられた細川藤孝・忠興父子は、宮津に本城を置き田辺・峰山に支城を築いて治めた。関ヶ原の役の発端となった徳川家康の会津討伐で、忠興は家康に味方して参陣した。留守を守る藤孝は石田三成方の福知山城主小野木氏の攻撃を受けた為、宮津城を破却し田辺城に籠城した。藤孝は西軍の大軍を相手に奮闘、更に「古今伝授」の唯一の継承者である藤孝の死を憂慮した後陽成天皇の仲裁もあり、50日間持ち応え大軍を田辺に釘づけにした。役後細川氏はその功により、豊後中津に転封となり、代わって京極高知が入封した。高知死去後、遺言により宮津・田辺・峰山の三藩に分知され、それぞれ高広、高三・高信が立藩した。京極氏は四代にわたり治政し、その間三の丸の造成、城下町の整備を行った。高盛の時、豊岡に転封、代わって京都所司代の牧野親成が入り、城を整備し、十代に亘り田辺を治め明治に至った。牧野氏歴代藩主は寺社奉行等幕政を担った。節成は繭・漆・藍等を専売し財政再建を試みたが失敗。幕末京都御所・将軍警護等にあたったが、戊辰時は鎮撫使に開城した。
復興大手門(場所は異なる) 模擬隅櫓 同・堀跡
同(内部から) 公園内部 井戸 石垣 石垣
石垣の上 石垣 本丸庭園 公園内部
本丸天守台 大手門・隅櫓方面を見る 石垣 郭跡
二の丸石垣 二の丸石垣・堀跡 虎口
脇を通る特急電車 線路の向うの城跡 二の丸石垣
本丸庭園 石垣 同と堀跡
郭跡 郭跡 藩校明倫館門