日本の城跡

船岡山城

横堀・土塁
訪問日 H22年 5月
ポイント 船岡山は平安京建設の際、都を守る四神のうち、北方の守護、玄武に見立てられ、都市計画の基軸とされた。西軍の山名宗全に味方した西国最強の守護大内政弘は東軍の赤松政則を撃破して入京を果たし陣を張った所。ここは京都市内から丹波へと越える長坂口を押さえる位置にあり、東軍の細川勝元が丹波の味方と連絡することを阻止する目的であった。しかし当城は曲輪・櫓・堀の構築は見られるものの、あくまで戦時用の陣城であったと思われる。
印象 応仁の乱で西軍が本陣とした場所。ところどころに曲輪・横堀・土塁らしきものがあるが、目立った遺構は見られない。少しなめて登ったが、結構な坂道をえっちらおっちら登って山頂に。ここから京都の中心街や山崎・嵐山方面が一望でき、京都を抑える拠点であることが実感できる。山頂には織田信長を祀る建勲神社が建っており、入場が規制されて一部の遺構が見られないのは残念だった。
地図
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略史  応仁・文明の乱の時、西軍の山名宗全方の本陣として城郭が築かれた。応仁二年(1468)、東軍の細川勢が総攻撃を加え、守将山名教之の家臣小嶋安芸守は討死し落城した。その後は東軍、西軍とも使用しなかったが、畿内の情勢は細川政元の暗殺後の細川家の内紛で、澄元と高国派の将軍家を巻き込んだ抗争が繰り返されていた。永正八年(1511)、将軍足利義澄を奉じる澄元が船岡山城を修築し、前将軍足利義稙を奉じる高国・大内氏連合軍に備えた防御陣地とした。しかし堂ノ庭城に布陣した高国・大内氏連合軍の怒涛の攻撃の前に、善戦空しく澄元勢は大敗した。その後も足利義輝・細川晴元が三好長慶との戦いで仮陣を構築している。
主郭 横堀・曲輪 横堀 遠望
山頂より中心街
同山崎方面