日本の城跡
船岡山城
略史 応仁・文明の乱の時、西軍の山名宗全方の本陣として城郭が築かれた。応仁二年(1468)、東軍の細川勢が総攻撃を加え、守将山名教之の家臣小嶋安芸守は討死し落城した。その後は東軍、西軍とも使用しなかったが、畿内の情勢は細川政元の暗殺後の細川家の内紛で、澄元と高国派の将軍家を巻き込んだ抗争が繰り返されていた。永正八年(1511)、将軍足利義澄を奉じる澄元が船岡山城を修築し、前将軍足利義稙を奉じる高国・大内氏連合軍に備えた防御陣地とした。しかし堂ノ庭城に布陣した高国・大内氏連合軍の怒涛の攻撃の前に、善戦空しく澄元勢は大敗した。その後も足利義輝・細川晴元が三好長慶との戦いで仮陣を構築している。 |