日本の城跡

法華宗・本能寺

本堂
訪問日 H10年 7月
ポイント 本能寺は早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深く、織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿舎としていた。本能寺は度重なる焼討ちに遭っている為、本能寺の「能」の字が「火が去る」と言う意味で「ヒ」が「去」の字に変えられている。
印象 現在の本能寺は明智光秀襲撃の舞台とは異なるが、感慨深く参拝した。光秀叛旗の原因は天下奪取の野望説、徳川家康接待役の解任、敵地への国替え等による怨恨説、足利義昭らによる信長殺害誘導の黒幕説等等謎多く興味深い。
地図
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略史  法華宗本門流の大本山。当初は本応寺と言い、室町時代(1415年)に京都油小路高辻と五条坊門の間に日隆によって創建された。しかし日隆が妙本寺の月明と本迹勝劣を巡って対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は尼崎に移った。14年後、京都に帰り千本極楽付近に再建、更に四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を本能寺と改めた。その後本能寺は法華経の霊場として栄え、京都法華宗本山の一つになり、足利幕府の保護を受けて寺域も4万uの敷地を有した。戦国期、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇は焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。10年後頃帰洛し、日承上人が入寺し四条西洞院・錦小路等にわたる広大な寺域に大伽藍が造営されたが本能寺の変で堂宇は焼失した。その後、天下を握った豊臣秀吉は寺域を現在の寺町御池へ移転再建され、更に江戸幕府から朱印寺領を与えられるなど大寺院となった。しかし天明の大火、幕末の禁門の変で再度堂宇は焼失した為仮本堂を建て、昭和3年に現本堂を落慶した。
  山門
織田信長廟
  旧本能寺跡