日本の城跡
聚楽第
(別称:内野御構)
聚楽第東濠跡
訪問日
H22年 5月
ポイント
聚楽第(邸の意味)としているが、天守を備え、縄張りも広島城・会津若松城に共通したところを持つ等聚楽城と言えよう。更に聚楽第を中心に武家屋敷を配し、寺町、寺の内などの寺院区、外郭としての御土居の構築など京都の城下町化を進めた。総面積は現在の二条城を凌ぐ、27万u。
印象
聚楽第の東濠の碑が街角にあった。この周辺にあったと思われるが、徹底的な破壊、加えて民家が密集して遺構は少ない。近くの松林寺境内に外濠の遺構があった。西本願寺の唐門・飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺大門が聚楽第の遺構と言われるが、実証は無いらしい。しかしいずれも栄華を極めた秀吉の建物の雰囲気を感じた。
地図
地図をクリックすると拡大します
略史 豊臣秀吉政権の京都における政庁。小牧・長久手の役により、豊臣政権が成立、関白に就任した秀吉はその地位にふさわしい城として、大阪城と並行して進められた。完成後、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、天下にその権力を誇示した。その後関白になった養子秀次に聚楽第を譲ったが、秀次の追放・自殺により、徹底的に破却されて伏見築城の資材に転用された。竣工して八年の短い命であった。
聚楽第跡
同南外堀跡(松林寺内)
同
聚楽第と禁裏を結ぶ幹線道路に架かる堀川中立橋
聚楽第遺構と言れる西本願寺飛雲閣
同唐門
同大徳寺唐門
同妙覚寺大門