日本の城跡

笠置城(別称:笠置山城)

遠望・手前が木津川
訪問日 H22年 5月
ポイント 木津川の横谷の北岸に聳え、東麓に布目川、西麓に白砂川が流れ、三方を河川に囲まれている。南側は尾根道を経て柳生方面や大和・河内国に通じている。また山麓から山頂まで絶壁や、巨岩がおりなしており天然の要害である。城は笠置寺の仁王門付近に堅固な砦を築き、櫓を構えて矢間を造り、更に木柵を設けて投石用の大石を集めた。このように敵の軍勢を山頂近くまでおびき寄せて、大石・大木等を落として殲滅する作戦をとった。天皇方の軍勢は笠置山周辺の郷侍や山城・精華町からの者が主力で、”山城郷士”と呼ばれている。
印象 後醍醐天皇の行在所が主郭、その下にU郭や曲輪らしきものがあるが、峻険な山を最大の武器としており、防御施設は殆んど見つからなかった。車で山頂近くまで行ったが、ここまで天皇が本当に立て篭もったのに疑問が湧くほど全山岩山で険しい。巨石が至る所にごろごろ、また突き出しており霊山としての山のイメージが強い。もみじが多く、秋の紅葉のすばらしさが目に浮かぶ。
地図
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略史  元徳三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐の計画が事前に発覚した為、密かに奈良東大寺に逃れ、更に鷲峰山の金胎寺、そして笠置寺に入り挙兵した。笠置寺は683年の創建といわれ、鎌倉時代には大伽藍になっており、天皇は今の正月堂付近に本陣を置いた。鎌倉幕府は直ちに笠置城攻撃を開始したが、高橋勢、小早川勢が討ち取られ失敗した為、全国から兵を招集し七万の大軍をもって本格的攻撃にかかった。天皇方は奮戦し1ヶ月近くも大軍の攻撃を退けたが、幕府軍の激しい風雨と闇夜に乗じた城の背後からの決死隊の不意打ち攻撃により、天皇方は総崩れとなり落城した。後醍醐天皇は辛うじて城を脱出したが、綴手郡井手の有王山で捕らえられ京都六波羅に送られ、翌年出雲国隠岐島に流された。戦国時代には河内飯森山城主代木沢長政の持城となっている。
後醍醐天皇行在所(主郭)
二の丸へ
二の丸
貝吹き岩曲輪
同・貝吹き岩
同から見る木津川
大師堂
笠置寺本尊仏(弥勒大磨崖仏)