日本の城跡
笠置城(別称:笠置山城)
略史 元徳三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐の計画が事前に発覚した為、密かに奈良東大寺に逃れ、更に鷲峰山の金胎寺、そして笠置寺に入り挙兵した。笠置寺は683年の創建といわれ、鎌倉時代には大伽藍になっており、天皇は今の正月堂付近に本陣を置いた。鎌倉幕府は直ちに笠置城攻撃を開始したが、高橋勢、小早川勢が討ち取られ失敗した為、全国から兵を招集し七万の大軍をもって本格的攻撃にかかった。天皇方は奮戦し1ヶ月近くも大軍の攻撃を退けたが、幕府軍の激しい風雨と闇夜に乗じた城の背後からの決死隊の不意打ち攻撃により、天皇方は総崩れとなり落城した。後醍醐天皇は辛うじて城を脱出したが、綴手郡井手の有王山で捕らえられ京都六波羅に送られ、翌年出雲国隠岐島に流された。戦国時代には河内飯森山城主代木沢長政の持城となっている。 |