日本の城跡

物集城

主郭・水堀
訪問日 H22年 5月
ポイント この地域は弥生時代を中心とする複合遺跡があり、古くから人々が生活していた。当城は嵯峨から西岡を経て山崎方面に至る物集女縄手の要害で、山陰道をも押さえる位置にある。土豪の居館が城塞化したもの。
印象 水堀が残る他、主郭・土塁が分かるが、私有地で立ち入り禁止の札が立ち、所有者らしい人が畑作業中であった為遠望した。周辺にはアパート・住宅が建設され、このままだと消えていく運命か?
地図
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略史  秦氏の一族、土豪の物集女氏は、戦国時代には天竜寺領物集女荘の代官として在地の有力者となり居館を構えていた。天正元年(1573)、織田信長は細川藤孝に桂川西岸一帯の地を与え、藤孝は国人らの領地を安堵したが、物集女忠重は藤孝の勝龍寺城への御礼参上を拒否した為誘殺された。以後物集女氏は衰退した。
水堀
主郭・土塁