日本の城跡

二条城

二の丸東大手門
訪問日 H8年10月
ポイント 徳川政権象徴の城。典型的な回字形平城。周囲の水堀は巾が13〜19m.あり、石垣は水面上でも6m.を越える石垣造りである。家康創建時は現在の二の丸を中心とする南北に長い単郭の城で五重天守を持っていた。家光の時、御水尾天皇の行幸に合せ、西側に本丸を新造し、天守・二重。三重櫓を多聞櫓で囲み、二の丸も四隅の二重櫓を土塀を巡らせ防御強化を図った。しかしこの時を境に幕末まで将軍が訪れることもなく二条城の歴史的使命はひとまず終りを告げた。二条城は国宝の二の丸殿舎はじめ、多くの遺構に桃山文化の芸術のすべてが凝縮された文化財を誇っている。
印象 御所を威嚇する将軍家の城として風格がある。二の丸・本丸が整然と残っている。いずれの遺構も目を見張るが、特に国宝の二の丸御殿はどっしりとした建物で一つ一つに桃山芸術の粋が集まっている。通常、二の丸御殿を見て帰る人が多いが総石垣に囲まれた、がっしりとした本丸に廊下橋門・巨石を積上げた天守台等面白い。
地図
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略史  豊臣秀吉の聚楽第の機能を継承し、上洛の際の将軍の館に当てる為徳川家康が築いた。朝廷を監視すると共にそれに対峙する政治的施設である。大阪の役では家康、秀忠が在駐し、幕府方の本営となった。幕末、慶喜は当城で将軍宣下を受け、更に大政奉還を上奏している。慶喜退去後は朝廷が接収し太政官代となり京都府に移管された。ところで、二条城は過去武家政権の朝廷との関連、機内・西国への執行機関を兼ねた拠点としていくつも存在した。鎌倉政権の六波羅探題、足利政権の花の御所、豊臣政権の聚楽第等。主なものは、(1)足利義昭の居所として織田信長が築いた二条城。京都御所の西側、現在の平安女子学院敷地周辺にあったが、義昭の反抗により信長により破却された。(2)信長自らの在京屋敷として築いた二条御新造。誠仁親王に献じ、二条御所と呼ばれた。本能寺の変の時、織田信忠が入城したが明智軍の攻撃を受け焼失、信忠も自刃した。(3)信長に倣い、豊臣秀吉が築いた聚楽第。御所の西側、現在の千本通と下立売通の交差点北東一角にあった。そして聚楽第を中心に洛中と洛外を区画する大土塁を構築した。これは現在でも北野神社境内等に残っている。しかし聚楽第は豊臣秀次の切腹に伴い破却され、伏見城に転用された。 (4)当城である、徳川家康が築き、家光が改修拡張した二条城である。 
二の丸東大手門・番所
 
二の丸東南隅櫓
二の丸西南隅櫓
二の丸堀
唐門
同内側より
東南隅櫓の内側
二の丸殿舎・遠侍・車寄
所司代との連絡用鐘楼跡
二の丸殿舎・庭園
同庭園
本丸東櫓門
同内側
本丸桝形
本丸堀・桃山門
本丸堀・鳴子門方向
本丸桝形内側
本丸御殿[桂宮邸)
天守台へ
天守台より桃山門方向
 
天守台より西虎口
天守台より張り巡らされた雁木
本丸御殿北側殿舎車寄
本丸西虎口
本丸天守台石垣
南中仕切門
南門
桃山門
本丸堀・東櫓門
本丸堀・天守台方向
南土蔵
鳴子門
家光が城内に建てた聴秋閣(横浜三渓園内に移築)