日本の城跡
二条城
略史 豊臣秀吉の聚楽第の機能を継承し、上洛の際の将軍の館に当てる為徳川家康が築いた。朝廷を監視すると共にそれに対峙する政治的施設である。大阪の役では家康、秀忠が在駐し、幕府方の本営となった。幕末、慶喜は当城で将軍宣下を受け、更に大政奉還を上奏している。慶喜退去後は朝廷が接収し太政官代となり京都府に移管された。ところで、二条城は過去武家政権の朝廷との関連、機内・西国への執行機関を兼ねた拠点としていくつも存在した。鎌倉政権の六波羅探題、足利政権の花の御所、豊臣政権の聚楽第等。主なものは、(1)足利義昭の居所として織田信長が築いた二条城。京都御所の西側、現在の平安女子学院敷地周辺にあったが、義昭の反抗により信長により破却された。(2)信長自らの在京屋敷として築いた二条御新造。誠仁親王に献じ、二条御所と呼ばれた。本能寺の変の時、織田信忠が入城したが明智軍の攻撃を受け焼失、信忠も自刃した。(3)信長に倣い、豊臣秀吉が築いた聚楽第。御所の西側、現在の千本通と下立売通の交差点北東一角にあった。そして聚楽第を中心に洛中と洛外を区画する大土塁を構築した。これは現在でも北野神社境内等に残っている。しかし聚楽第は豊臣秀次の切腹に伴い破却され、伏見城に転用された。 (4)当城である、徳川家康が築き、家光が改修拡張した二条城である。 |
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