日本の城跡

二条古城(別称:二条御所)

女学院角の城碑
訪問日 H22年 5月
ポイント 当城は当時の洛中上京地区のほぼ中央に位置し、京都の中枢を防衛する目的で、堅固な要塞を構築した。信長の総指揮の下、毎日数千人の人夫を使い猛スピードで進めた。石垣は多数の石仏・板碑・五輪塔などを断ち割って使用していたことが発掘調査で分かっている。
印象 なかなか見つからず京都府庁の守衛さんに聞く。(京都府庁は元京都守護職松平氏の上屋敷跡。)平安女学院の角に城碑が建っていた。広大な城域であったらしいが、今はその面影は全くない。御所と現二条城に当城の石垣が再現されている。女学生の黄色い声が聞こえるのみだった。
地図
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略史  永禄11年(1568)織田信長の軍事力のもと、十五代将軍となった足利義昭は本圀寺を館とした。しかし三好3人衆が突如として京都に侵入し、本圀寺を取り囲んだ。このときは佐久間信盛はじめ信長配下の部将の奮闘により3人衆は敗走したが、将軍としての堅固な館が必要になった。そこで前将軍義輝の館跡が着目され、信長総指揮のもと翌年着工し70日で完成した。しかし義昭は信長の傀儡政権からの脱皮を図り始め、信長の敵対勢力と結び叛旗を翻した。義昭は二条城に新堀をほり、弾薬・兵を蓄えた為、信長は大軍をもって入京し焼払い等義昭を威嚇した。義昭は天皇に仲立ちを願い、信長に無条件降伏し、ここに室町幕府は終焉した。二条城は4年の短命で廃城、解体され信長の在京屋敷、二条御新造に移築された。のちに御新造は誠仁親王に献んじ二条御所となった。本能寺の変の時、妙覚寺を宿所にしていた信長の嫡子信忠がこの御所に立て篭もり奮戦したが、明智勢の大軍の攻撃の前に自刃した。
   二条古城跡の女学院 同にある斯波氏武衛陣・足利義輝邸碑   御所に残る二条古城復元石垣
京都府庁 京都守護職上屋敷碑