日本の城跡

山科本願寺

公園内の土塁
訪問日 H21年 2月
ポイント 山科は京都に近く、琵琶湖水運を仲介として、北陸と大阪、瀬戸内を結ぶ最短距離にある。この地に土塁と堀を巡らし軍事要塞化寺内町を形成した。土塁の高さは5m.に達し、中世の平城としては京都府最大の規模であった。
印象 住宅開発でかなり遺構は小さくなっているが、蓮如の廟所と若干の土塁、堀跡らしきものが残る。東西両本願寺の別院が建てられている。平城の始まりとも言われている。公園の一角の土塁を見ていると、中世の宗教戦争の激しさと信仰心の強さを感じる。
地図
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略史  親鸞の廟所から発した京都東山の大谷本願寺は比叡山により破却された。八世蓮如は、堅田次いで越前吉崎に逃れた。その後蓮如は山科に本願寺再建を着手し、土塁と堀に囲まれた寺内は繁栄していった。次の証如の時に本願寺は一向一揆の先頭に立ち、武力主義に転身していった。一方応仁の乱の荒廃から復興した法華宗も土塁・堀を巡らす他、僧俗の武装に積極的であり、次第に本願寺との対立を深めた。その後法華宗と協力関係にあった細川晴元との対決により、延暦寺宗徒・近江守護・法華一揆らの猛攻にさらされ陥落し、以後一向一揆の本拠地は大阪石山に移った。
公園内土塁
同・土塁上
蓮如廟所
同・土塁・石塁
公園と廟所間の小川(堀)?
東本願寺山科別院
  
同山門