日本の城跡

飛鳥京


飛鳥浄御原宮時代の大井戸跡
訪問日 H30年 4月
ポイント 舒明朝の飛鳥岡本宮、大化の改新の舞台となった、皇極・斉明朝の飛鳥板葺宮、斉明朝の後飛鳥岡本宮、天武・持統朝の飛鳥浄御原宮と歴代王宮が同じ場所に営まれていた。途中、難波、近江大津への遷都もあったが、飛鳥は維持管理された。そして持統天皇の時代に藤原京に遷都するまで、飛鳥が政治、文化の地であり、律令制に基ずく中央集権国家の基礎が作られた。
印象 混とんとしていた国を大王の下、ここ飛鳥の地で日本という国を形作っていったと思うと、胸が躍った。大陸・朝鮮から仏教・文化・技術を伝えた渡来人の存在、物部、蘇我氏との抗争、そしてそれらをまとめ上げ、乗り越えてきた人びとがここにいた。ただし、周りを見てみると、飛鳥川、飛鳥寺、甘樫丘、田など飛鳥を囲む地形は1300年前とほとんど変わらない姿があった。、ゆったりとした空間だった。
地図
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略史  飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀半ばまで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡である。宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や、飛鳥が政治都市であったことに関わる祭祀施設、生産施設、流通施設等から構成されている。具体的には伝飛鳥板葺宮跡を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡、未発見の数多くの遺跡や遺構を含んでいる。飛鳥京は複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の場所に遷宮したことにより、周辺施設と共に拡大して宮都としての機能を併せ持った。これはその後の建設当初から計画され、固定化する宮都(藤原京)への過渡的な都市であったことを示している。

飛鳥京跡

飛鳥京跡から甘樫丘方面
甘樫丘から飛鳥京跡方面

飛鳥京苑池跡
飛鳥池工房遺跡