日本の城跡

古市城

遠望
訪問日 H21年 2月
ポイント 風流大名と謳われた古市澄胤は茶の湯・謡曲・尺八・連歌の教養を積み、全盛期の古市城は京都から公家・文化人がしばしば訪れ、文化的なサロンの体をなしていた。他方、蓄財にもたけ、東山内から笠置のルートを押さえて馬借とも通じたり、博打で諸郷の郷銭や壷銭をまきあげ、又農民から棟別銭を取り立てていた。更にこの財をもとに京都の政界と深い関係をもち、山城国一揆の崩壊にも一役買い領地を広げている。
印象 歩いた、歩いた、大和盆地のへりをのんびりと。古市小学校が本丸跡。堀跡・土塁が残り、二面が結構急崖になっている。城碑がなかなか見つからず、地元の人に聞く。学校の南端の藪の中にさびしく立っていた。この時代にすると二の丸を含め大きいな城郭だ。暑い日で大汗をかいだが、そのせいか八反池に真っ赤なザリガニが沢山蠢いていたのにびっくり。隣接して出城であったろう、高山城・藤沢城が残っている。
地図
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略史  古市氏は大乗院方衆徒の中で最大の勢力を誇った国人で、古市の土豪から台頭し代々古市城を居城とした。古市氏は南北朝の争乱で越智氏と結び、大乗院前門跡経覚を擁して活躍した。応仁の乱の時澄胤が惣領となり、越智氏との関係から明確に西軍(義就派)に属した。乱後澄胤は官符衆徒の棟梁で奈良検断職に就いて大和守護代に相当する地位を築き、居城を拡充、本丸・二の丸を備えた壮大な城のなった。更に越智・筒井氏の抗争で越智氏に加勢して筒井順尊を破り、筒井氏の勢力は衰えた。しかし筒井氏はその後勢力を盛り返し古市澄胤を破り、城は破却された。山中に逃れ、筒井・越智氏ら主だった国衆の盟約から外された古市氏は細川政元が派遣した赤松氏と結んで対峙したが敗れ死んだ。以後古市氏の勢力は衰え、筒井氏の傘下に組み込まれた。
小学校南端にある城碑
 
本丸方向・郭跡
堀跡
城塁・堀跡
八反池(堀)・隣接の高山城方面
八反池・前方が本丸
麓の奉行屋敷跡・土塁
 
同じく会所・御蔵・勘定場跡
    
同じく御前原石立命神社(氏神)
   
堀跡
町内の旧家
隣接の高山城(出城)土塁
同土塁
同堀切
同堀切
同遠望
近隣の藤原城(出城)遠望
崇道天皇社
崇道天皇陵
古市方面遠望