日本の城跡

五条代官所

裁判所脇にある史跡公園・移築長屋門
訪問日 H22年 5月
ポイント この代官所が有名になったのは、1863年8月に前侍従中山忠光を総大将とする天誅組が代官所を襲撃し、代官鈴木氏ら5人を惨殺し代官所を焼払った事件である。一味は五条の桜井寺を本陣として「五条政府」の樹立を宣言、いわゆる”天誅組大和義挙”である。一味は幕府軍側の追討を受け、激戦を繰り返しながら終には東吉野で壊滅したが、この義挙は後の武力討幕の導火線となった。
印象 五条代官所は今の市役所の所にあった。襲撃後、今の簡易裁判所の所に再建されたが、明治に五条県庁になった。そしてその時の代官所長屋門が、裁判所隣の史跡公園に移築されている。再建された長屋門で、きれいに移築されている為、動乱の雰囲気は感じられない。しかし高台の裁判所の所にあるせいか、土塁・長塀を見ていると代官所を思い起こさせる。五条は古くから吉野川の水運を利用した商業都市で、醸造元はじめ江戸・明治の雰囲気を持った町並みであった。
地図
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略史  五条は大和では奈良に次ぐ都市で、周辺は米の多収穫地で、加えて京都・大阪に近い為、五条藩は廃藩後天領となった。その後寛政の改革を推進していた老中松平定信により五条に幕府代官所が設置された。代官所は五条の他、宇陀郡・吉野郡の天領五万石余を支配する文字通り南大和地方の政治的中心地となった。初代は河尻甚五郎で、以後十三人の代官が赴任した。
再建後の代官所跡
移築長屋門
土塁・石垣
石垣[近年もの)
代官所跡(裁判所)