日本の城跡
平城京
略史 和銅三年(710年)、元明天皇が律令制に基ずく政治を行う中心地として、それまでの飛鳥に近い藤原京から都をうつしたもの。聖武天皇の時、藤原広嗣の乱等により途中五年間は都を転々としたが長岡京に移るまでの74年間、奈良の地が都として栄えた。中国・唐の都、長安城などを模範とし、条坊制をしいた。天皇の居住地である平城宮は京の中央北端に配置し、その中軸にメインストリート・朱雀大路を設けた。朱雀大路を挟んで西側を右京、東側を左京とし、更に外京と称する張り出し部分を東に設けていた。ここには興福寺・元興寺・葛城寺等寺が営まれた。こうして大小の直線道路によって碁盤の目のように整然と区画された宅地に分けられていた。居住人口は10万人強といわれるが、天皇・皇族や貴族はごく少なく100人強程度で、大半は下級役人や一般庶民であった。 |