日本の城跡

平城京

復元・朱雀門
訪問日 H16年12月、H23年 2月
ポイント 平城京は奈良盆地の北端に位置し、山背国へ抜ける木津・淀川の水系につながり、山陽・山陰・北陸・東山道方面に連なる交通の要衝であり、又南も大和川水系によって瀬戸内と連絡できる位置を占めている。しかし京の経済基盤は商業や工業ではなく、地方からの調庸物の貢納に依拠していた。この為律令制度が動揺し、貢納体制が衰退していくにつれ矛盾を深め、後半は激しいインフレーションにみまわれた。更に僧道鏡の出現等をめぐって政界も混乱し、新しい都城の建設が要請されることとなった。
印象 発掘・復元作業が行われていると聞き訪問。東北でも古代の政庁等の発掘を見てきたが、桁違いの大きさだ。復元された朱雀門の大きさを見れば規模が想像できる。京都の平安京と違い、少し郊外に位置しているため遺構も期待できそうだ。また行こう、楽しみだ。再訪。大極殿が復元、とにかく大きい。まだまだ復元は続く。
地図
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略史  和銅三年(710年)、元明天皇が律令制に基ずく政治を行う中心地として、それまでの飛鳥に近い藤原京から都をうつしたもの。聖武天皇の時、藤原広嗣の乱等により途中五年間は都を転々としたが長岡京に移るまでの74年間、奈良の地が都として栄えた。中国・唐の都、長安城などを模範とし、条坊制をしいた。天皇の居住地である平城宮は京の中央北端に配置し、その中軸にメインストリート・朱雀大路を設けた。朱雀大路を挟んで西側を右京、東側を左京とし、更に外京と称する張り出し部分を東に設けていた。ここには興福寺・元興寺・葛城寺等寺が営まれた。こうして大小の直線道路によって碁盤の目のように整然と区画された宅地に分けられていた。居住人口は10万人強といわれるが、天皇・皇族や貴族はごく少なく100人強程度で、大半は下級役人や一般庶民であった。
朱雀門
発掘中
第一次大極殿(以下H23年2月撮影)
第二次大極殿基壇
第一次大極殿 同飾り   大極殿から見た朱雀門