日本の城跡

古墳・飛鳥・白鳳文化の遺跡巡り(摂津・大和を中心に)<2>


推古朝・聖徳太子摂政・遣隋使の派遣・飛鳥文化開花・大化の改新

古代飛鳥の王宮
推古天皇が豊浦宮(豊浦寺・現向原、左記地図の左奥)寺で即位して以降の約100年間、大王の王宮は奈良盆地南部の飛鳥の地にあいついて営まれた。王宮の周囲に諸施設が整えられるにつれ、飛鳥は宮都としての様相を示すようになった。


伽藍配置の変遷
伽藍は、はじめ仏舎利(釈迦の遺骨)を納める塔を中心に配置されたが、時代が経つにつれ、本尊を安置する金堂が中心となり、ついには塔が回廊の外に建てられるようになった。これは信仰対象の変化によるとの説もある。


飛鳥寺創建
588年、蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の本格的仏教寺院。東、西、北の三方に金堂が築かれ、それらを回廊が囲む伽藍配置は壮大で、日本国内には例のない「飛鳥寺式」。本尊の飛鳥大仏は、推古天皇が詔して、鞍作鳥に造らせた日本最古の仏像である。
四天王寺創建
593年、聖徳太子が建立の七寺の一つで、日本仏法最初の官寺。南から北に向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む方式「四天王寺伽藍配置」がとられ、日本で最も古い建築様式。その源流は中国・朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を伝える貴重な存在である。
法隆寺建立
推古天皇と聖徳太子が用明天皇が病気平癒を祈ったご遺願を継いで、607年に寺と本尊薬師如来を造った。法隆寺は塔、金堂を中心に、世界最古の木造建築群の西院伽藍と、旧斑鳩宮跡の夢殿を中心とする東院伽藍に、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物や宝物類が残されている。太子建立七寺の一つ。
龍田神社創建
聖徳太子が法隆寺の建設地を探していた時、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私がその守護神になろう」と言われたので、その地に建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。元々の社名は「龍田比古龍田比女神社」で、龍田比古神・龍田比女神の二神を祀っている。
推古天皇稜
日本で初めての女帝である推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心に飛鳥文化を開花した。稜は東西に長い三段築成の長方墳で、内部には二つの横穴式石室があると思われる。
聖徳太子墓
太子は推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣等の進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った。太子は621年に亡くなり、磯長の地に葬られた。墓は円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室で、太子と母の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれている。
小野妹子墓
科長神社南側の小高い丘の上にある小さな塚が、小野妹子の墓と言われる。妹子は推古天皇の時代、遣隋使として大陸の隋に派遣された。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建てて朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元の池坊の起こりとされる。現在、塚は池坊で管理されている。
石舞台古墳
日本最大級の石室を持つ古墳。7世紀初めの築造で、一辺約50mの方墳だったが、早い時期に盛土がはがされ、巨大な横穴式石室がむき出しに、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで石舞台と呼ばれる。露出した石は約30個、総重量は2300tと推定されている。被葬者は不明だが、蘇我馬子の墓の可能性が高いと言われている。
吉備姫王墓
欽明天皇稜の南西にある円墳。吉備姫は欽明天皇の孫で、皇極天皇、孝徳天皇の母、天智天皇、天武天皇の祖母にあたる。

飛鳥寺方面

左側に蘇我入鹿館跡がある
甘樫丘
明日香村の飛鳥川沿いの低丘陵。頂上から飛鳥一円が眺望できる。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷、入鹿親子の館があったと言われている。大化の改新で入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸宅に火をかけて自害したと言われており、中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、出土した土器の年代が一致することから館が存在していたと想定される。
談山神社
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、多武峰に登り「大化の改新」の談合を行ったことから、後にこの山を談山、談所ケ森と呼び、神社社号の起こりとなった。祭神は藤原鎌足である。本殿、拝殿などの華麗な社殿や日本唯一の木造十三重塔の他、桜や紅葉にくわえ、春秋の古式豊かな蹴鞠祭りが有名である。

飛鳥寺の建立当時はこの付近まで寺域
飛鳥寺から甘樫丘の蘇我氏館跡方面
蘇我入鹿首塚
飛鳥寺の西、旧飛鳥寺西門近くで、飛鳥川との間に立つ五輪塔。飛鳥川の向こうには蘇我氏の館があった甘樫丘がある。大化の改新の時、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者、蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたとも言われている。