日本の城跡

古墳・飛鳥・白鳳文化の遺跡巡り(摂津・大和を中心に)<3>


大化の改新・律令国家へ道・唐初期文化の影響・白鳳文化の開花

飛鳥京
舒明朝以降、飛鳥の王宮はすべてほぼ同一の場所で営まれ、周囲には広場や苑池などの施設も設けられていった。


飛鳥の石造遺物
飛鳥には多くの石造遺物が残っている。いずれも7世紀中頃から後半に造られたものと言われる。鬼の俎・雪隠が、もとはキトラ古墳と同じ横穴式石棺の石室と底石であったことが分かっているが、他のものは誰によって、何のために造られたのか分からない謎の遺物
である。


飛鳥板蓋宮跡
板蓋宮は、7世紀半ばの皇極天皇の宮殿で、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺された大化の改新の舞台。ここには複数の宮殿遺構が重なっており、現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のもの。

石神遺跡・石人像(噴水施設)
飛鳥稲淵宮殿跡
飛鳥川の左岸、石舞台古墳の南方400mにある。掘立柱建物、石敷遺構や7世紀中頃から後半の土器と硯が出土した。瓦が見つからなかったことや、建物の配置から宮跡と考えられ、遺構の年代から、飛鳥河辺行宮ともいわれている。

埋め戻された遺跡
須弥山(噴水施設)
石神遺跡
飛鳥寺旧寺域に接する西北一帯にある。斉明天皇の頃を中心に、各時代の遺構が重なっている。斉明天皇の頃の遺構は、東西大垣と長廊状の建物によって東・西二つの区域に分けられる。西側は廂付の大規模建物が見つかり、日常的な空間として利用されていたと思われ、通路によって水落遺跡に繋がっていた。東側は井戸を中心に、北に四角に囲まれた掘立柱建物と、石組構が縦横に配置されている。石神遺跡は斉明朝の饗応施設の一部と考えられる。なお明治時代に須弥山石と石人像が出土している。
水落遺跡
石神遺跡の一角にある飛鳥時代の時計台の跡。660年、中大兄皇子が日本で初めて造った漏剋(水時計)を据えた時計台である。発掘により、貼り石のある四角い土壇と、その上の4間四方の楼状建物の跡と、黒漆塗りの木製水槽を使った水時計が見つかった。
橘寺
聖徳太子生誕の地(異説あり)とされる。太子建立七寺の一つ。当初は「四天王寺式」の壮大な伽藍配置を誇ったが、何度も焼失、現在の伽藍は江戸時代のもの。境内に残る花形の柱穴の塔心礎は必見。また一つの石に善と悪の二つの顔を持つ二面石がある。
川原寺跡
飛鳥寺・薬師寺・大宮大寺とともに飛鳥四大寺の一つ。平城京遷都後も飛鳥の地に残った。母の斉明天皇の冥福を祈り、天智天皇が建立した。西金堂と塔を回廊が囲み、その北側に中金堂、さらに北側に講堂を置く「川原寺式」伽藍。その後複数回に渡って焼失、鎌倉時代に再興されたが、室町末期に落雷で焼失後は廃寺となった。しかし江戸中期に中金堂跡に弘福寺が建立され現在に至る。

東塔は解体修理中
薬師寺
天智天皇が680年に発願、文武天皇の代に飛鳥の地に堂宇の完成を見た。その後平城遷都で現在の地に。南都七大寺の一つとして大伽藍を誇り、裳階を施した金堂を中心に東西塔、講堂、回廊が立ち並んだ。その後幾多の災害を受け、特に室町後期の兵火では東塔を除く諸堂が灰塵に帰してしまった。しかし高田好胤管主により白鳳伽藍の復興が発願され、金堂・西塔・中門・回廊、そして大講堂が復興されるに至った。
中尾山古墳
かっては「石墓」と呼ばれ、墳丘を石が覆っていた八角形墳。横口式石槨の内面びは朱彩も施されている。被葬者は文武天皇の可能性が高い。
文武天皇陵
高松塚古墳の南に位置し、天武・持統天皇の孫にあたる文武天皇が祀られている円墳。ただ、天皇陵とされる古墳は八角形墳が多く、文武天皇が火葬されたことから、中尾山古墳の方が有力ではないかと言われている。
高松塚古墳
7世紀末から8世紀初めの築造で、直径23m、高さ3.5mの円墳。石室に描かれた男女の群像図、四神図、星宿図などの極彩色の壁画で注目された。被葬者は天武天皇皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説に分かれて特定されていない。
キトラ古墳
横口式石槨内に描かれた天文図などの壁画で知られる円墳。壁画にはほかに玄武、朱雀、白虎、青龍の四神像、獣頭人身の十二支像が描かれている。被葬者は天武天皇の皇子もしくは側近の高官説、右大臣の安倍御主人説、百済からの渡来人、百済王昌成説等の諸説があり、判然としていない。
酒船石
飛鳥を代表する謎の石造物。長さ5.3m、最大幅2.3m、暑さ1mの平らに加工された花崗岩の表面には円、隅丸方形、楕円の窪みが彫られ、それらを直線で溝が結ぶ。酒造りに用いたと伝わることから、この名が付いたが実際の用途は分かっていない。
 

切石積
   
亀形石造物
 
  切石積石垣
砂岩の切石の石垣。日本書紀の「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。」と記された「石の山丘」の場所か。
亀形石造物
斉明天皇時代に造られたとされる。長さ2.3m、幅2mの亀の姿の石造物。丸い目を持つ頭が取水口となり、甲羅にたまった水が溝の刻まれた尻尾から流れるようになっている。付近から湧水施設や排水溝、石敷、石垣等も見つかっており、何らかの祭祀が行れていた空間であった。
 
 
 
   

高取城の猿石
猿石
年代、制作理由も不明の、猿を思わせる顔の石造物。元々は欽明天皇稜南の田から掘り出されたものだが、その後吉備姫王墓前にうつされたもの。特徴から僧、男性、女性、山王権現の名前が付いている。高さは1m前後。
なお、高取城にある猿石も同じところから掘り出され、移されたものと思われる。
 
 

左、悪面
 

右、善面
    二面石
橘寺境内にある、善面と悪面の顔を持つ石造物。姿かたちから、吉備姫王墓に置かれた猿石と同じ場所から掘り出されものと思われる。無垢な顔つきの善面と大きくゆがめられた悪面の対比が目を引く謎の石造物である。
 
 
 
 
  鬼の雪隠・俎
謎の石造物に見えるが、実は刳貫式横口式石槨の墓石(雪隠)と床石(俎)。7世紀中頃に築造された長方墳とみられる。鬼が付近を通る旅人を俎の上で料理し、雪隠で用を足したと伝えられる。
 
 
 
     亀石
穏やかに微笑んだような表情が愛らしい。明日香を代表する謎の石造物。巨大な花崗岩に亀のような動物が彫られている。造られた理由は分からないが、伝説によると、亀石は当麻の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったもの。亀は北向きから東向き、更に今は南西に向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いた時、大和一帯は泥の海に沈むと言われている。