日本の城跡
櫛羅陣屋
遠望
訪問日
H22年 5月
ポイント
永井直壮は陣屋を構えるに当たって、藩領の中で特に栄え、また要害の地であった当地を選んだ。一部の遺構が民家、寺に残っている。
印象
見つけにくい場所。地元の人に聞いてやっと分る。しかし陣屋地は丘陵に位置しているが、立ち入り禁止の門があり侵入断念。門の脇から一部の城塁を撮る。民家に移築されている陣屋南門があった。
地図
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略史 丹後宮津藩主永井尚長は4代将軍家綱の葬儀の時、鳥羽藩主内藤忠勝に殺害され、嗣子なく領地収公されて除封。だが尚長の弟直円に名跡相続が許され、1680年に櫛羅で一万石を与えられ新庄藩を立藩した。永井氏は参勤交代をしない定府大名となり、直円以降は大阪定番や大番頭を務めたが、1863年、直壮の時に幕府の文久の改革の一端である参勤交代制度改革の余波を受けて櫛羅に初めて陣屋を構えて櫛羅藩と称した。8年後廃藩置県を迎えた。
城塁
同
堀跡
櫛羅新道
移築陣屋南門